新人記者の教育2005年04月01日 08:06

 取材の相手から、自分の先入観念に合う発言を引き出そうと、決めつけに似た誘導質問を繰り返す新聞記者がいる。相手の本音を引き出すために、トリッキーな質問をする「鎌かけ」とは違って、あらかじめ頭に描いた記事の筋書きに合わせた証言を誘う、タチの悪い手法だ。後で問題を起こすことが多い。最近も、NHKのテレビ番組への「政治圧力」を糾弾しようと試みたA紙の中堅記者が、政治家などの取材に、この手法を使って非難を浴びている。
 4月1日、新人記者誕生の日である。わが国では、新入り記者の養成は、ほとんどの場合「オン・ザ・ジョブ・トレイニング」で、しかも「サツ回り」といって警察の取材から始まる。事故、窃盗、強盗、暴行、脅迫、詐欺、脅迫、誘拐、殺人など、警察で扱う情報は、みなプライヴァシーと捜査上の機密が絡んでいるから、内部では秘密扱いだ。そこを、さまざまな手口でコジ開け、ほじくり出してくるのが取材活動の基本とされてきた。
 もっとも近年は、記者クラブにじっとしていると、警察の広報が、鱗や小骨を取り除いた警察情報を給餌してくれるから、違法すれすれの警察取材は減っているようだ。
 しかし、相手が隠している情報を剥ぎ取ってくる取材には、いつも密室性と違法性がつきまとう。良かれ悪しかれ、取材する側とされる側に、固有の内密な取引関係も生じかねない。筆者はかねがね、こういうタイプの取材を、駈け出し記者の教育に使うことは不適当だと考えてきた。
 米国では新入りの記者に、まずスポーツ記事を書かせるという。この方法は、なかなか理にかなっている。競技場で現に起きているできごとを、正確にメリハリを利かせて書くのは、簡単なようで非常に難しい。動作は速い。一瞬の動きが勝敗を左右したりする。
 だから、まず正確な記事を書くことを指導する意味で、スポーツ取材はいい教材だ。何より、幾千幾万の観衆の目が、同じできごとを見つめており、記事の正確さや記者の目の付け所が見守られているところがいい。
 冒頭に挙げたような手法を使う記者は、警察で被疑者の調書をとる警察官の、高圧的な聴取方法を真似ているような気がしてならない。何よりも、そこに「第三の目」が欠けている怖さがある。(;)

地から来たもの 2005年04月04日 08:15

 何であれ、長年一つの仕事に打ち込んできた人の言葉には、巧まざる含蓄がある。
 東京・練馬に住んでいたころからのつき合いで、その後、横浜に越してからも小庭の面倒を見てもらった庭師のKさんも、時々ハッとするようなことを言った。
 たまたま、学園紛争真っ盛りのころの某大学学長と1字も違わぬ同姓同名だったが、言うことには、自然を相手の筋肉労働から抽出された哲理を感じさせるものがあって、文読む道で得られるものの、むしろ頼りなさを知らされた。
 もともとは、「いつのころからもわからない」先祖代々の農家で、住まいには大人が3人手をつないでも幹の周りが測れないほどの欅が、夏の日射しと西日をさえぎる。
 「百姓は、戦争に負けて年貢を取られなくなったんだから、畑を売って儲けようなんて、ご先祖さまのバチが当たる」と、宅地化が急速に進む地域で、農業と造園で暮らしを立てていた。
 椿や薔薇のような花ものは、「花芽に情けをかけては落第だ」と言った。
 大輪を咲かせようと思うなら、一番元気で付き具合のいい花芽を、一つ残してあとはみんな、運だと思って切ってしまえ、と言う。「何だって同しじゃねぇさ。総理大臣も、社長も、いっ時に2人は要らねぇべ」。
 曼珠沙華を指して、「この花はな、年に1回だけ、あの世とこの世の暦を合わせる時報みてぇなもんだ」と言った。確かに、Kさんのところの黒土に混じって来た鱗茎からは、今も3日と違わず秋の彼岸の入りに朱色の花が咲く。Kさんの畑の片隅にあった、ご先祖の墓地でも同じだった。
 夏に日蔭をつくり、冬に梢が美しい欅が好きで、植えてくれと頼んだら「身の程知らず」だと反対された。少しコチンと来て、逆らって植えてもらった。20年経ったら、狭い庭を睥睨し、近所迷惑な大樹と化して「身の程知らず」の意味を噛みしめている。
 「地から来たものは、地に返せ」と、Kさんは剪定した枝葉を決してゴミにはしなかった。大きな穴を掘って、そこで焼いて埋め返した。近ごろは住宅地での焚き火はご法度である。風のない晩秋の昼下がり、欅の葉を山に掃き集めて芋を潜ませ、静かにのぼる煙に物思った日が懐かしい。(;)

遺ブログ展2005年04月05日 06:59

 電子メイルはまことに便利だが、味わいにはすこぶる乏しい。携帯メイルは、合図のようだ。
 昭和ひとケタ世代までだろうが、かつては文通に神経を使った。文章(テキスト)だけが相手に届くのではなかった。文体、筆跡はもとより便箋、封筒まで、送る側の人格がはっきり表れたから、手紙書きは端座を要した。それで筆無精になった人も、大勢いる。
 若い男女の文通にも、ちょっとした決まりごとがあった。赤インクで書くのは絶交状と決まっていた。×印を署名の後に加えると、その数だけの口づけの気持ちを意味した。かつてスペイン人の丁重な書簡には「M.B.S.M」と末尾にあった。「Mil Besos a Sus Manos」の略で、「数多の口づけを御手に」という最上級の親愛の表現だ。すでに形式化していたから、今も使っているかどうか。
 万年筆が知識人の必需品であった時代まで、人々は筆跡を問題にした。達筆であるとか、筆勢があるとか、味のある筆遣いであるとか、やはり親子で書体が似ているなどと、話題にした。
 それが、ボールペンやフェルトペンが筆記用具の主流になって様子が変わった。次いで、書簡や報告書などを、もっぱらパソコンやワープロで作るように変わって、手書き文字についての人々の見方に革命が起きた。今や手書き文字は、コミュニケーションの、含蓄に富んだ手段としての性格を失って、書道という芸術の世界に閉じこめられた感がある。
 高校で同期の優等生だったMは、母校の国語教師となった。フォントの教科書体のような書を能くしたから、校内に会館が新築された時に、推されて会館名を揮毫した。石に刻まれたからには、末永くその文字が"教科書のような"人柄を偲ばせるよすがになるのは、是非もない。
 丸善商会によって「万年筆」と命名された新式筆記具が初めて輸入されたのは、明治20(1887)年ごろと伝えられるが、奈良の昔から明治の末年まで、日本の筆記具の大勢は毛筆であった。当然ながら、歴史に名を馳せた先人の手蹟には、それぞれの個性が今なお躍動している。時に「遺墨展」が人を集めるのも、この魅力によるものだろう。
 作家がパソコンのワープロ機能で書く時代だ。後生の人は「遺ブログ」を偲ぶのであろうか。(;)

カリグラフィー2005年04月06日 07:38

 書道は筆と紙の産物である。西暦1世紀、中国は後漢の時代に紙や筆が製品化されて盛んになり、3~4世紀に確立した。日本にも伝来して平安時代に仮名文字の書を生んだ。
 カリグラフィー(calligraphy=英、calligraphie=仏)といって、西欧や回教圏にも文字を飾る技法がある。欧州中世のミニアチュールの文字装飾や、イスラームのコーランの書写に使われる手技がそれである。
 中国や日本の書道が、これらと最も違うのは、表意文字である漢字を「書く作法」であることだ。カリグラフィーが、もっぱら"職人"の手になるのに対し、書は知識人の教養の一端であり、その達人として書家がいる。
 書道の祖とされる王犧之(おうぎし。東晋、西暦4世紀)は、「意在筆前 然後作字」=意は筆前(ひっせん)にあり。しかる後に字(しょ)を作る=と奥義を述べている。何をどのように書くか、筆を執る前に心中にあらねばならぬ。書を形作るのはその後だ、という。表意文字の面白いところだ。
 表音文字しか持たない西洋人にとって、東洋の書は非常に神秘的に感じられるようだ。一般には、カリグラフィーと呼んでいるが、教養人は「Sho」とか「Shodoh」と呼ぶほどに関心がある。
 かつて、ニューヨーク・フィルのトロンボーン奏者だった、デーヴィッド・フィンレイソン氏と、夫婦同士のつき合いがあった。彼は、書についての関心が強く、演奏で来日した折りに食事を共にした晩、銀座で色紙を5枚も買ってきて、「何か書いてくれ」と押しつけられた。
 聞くと、前に双方共通の友人であるEに、請われるまま戯れに書いた漢詩が、Eの家に額装されて飾られており、「とても美しい。我が家にも書け」と譲らぬ。とにかく漢字が面白いらしい。
 頼まれると断れぬたちだ。遂に引き受けたら、「書を2枚、2人の息子の名を漢字で2枚に、1枚はロス用」と、なかなか抜け目ない。
 結局、王維の「渭城曲」と、確か陶淵明の「挽歌の詩」を楷書で書き、英訳を添えて献呈した。
 返礼に、ニューヨーク・フィルの名演奏集のテープが届き、愛車に常備している。件の書の方は、今ごろノミの市で好事家に叩かれているかもしれない。夫妻からの消息は、絶えて久しい。(;)

3円の徳育2005年04月07日 21:19

 狂牛病の拡大阻止のため、2001年10月18日から始まった全頭検査以前に解体された国産牛や輸入牛を政府が市場から買い上げて焼却処分にすることになったのに乗じて、無関係の国産牛まで買い取らせ、公金50億円余を騙し取った畜産業者たちの裁判が始まっている。公判で、農水省の外郭団体が、この詐欺行為を助けるかのように業者らに情報を流していた疑いが検察側から指摘されて、仰天は怒りに変わる。
 日本の戦後教育の欠陥の一つに、徳育の欠落がある。何も難しいことではない、殺すな、盗むな、むさぼるな、嘘をつくな、甘い毒を飲むな、の戒めを教えれば済む。
 このような訓育が家庭の躾のうちだったのは、核家族化する以前のことで、結局、団塊の世代以降は、徳育と縁遠いまま大人に育った。その子らの世代は、言うに及ばずである。かつては、先達が後進の過ちに厳しかった。それだけ、道徳面で自信のある人物が多かったのかもしれぬ。
 親友のYは、新聞記者を志していた学生時代に、某大新聞のOBで、大学の講師をしていたH先生に作文の添削を引き受けてもらった。
 原稿用紙に1テーマ3枚、週に2ないし3テーマを時事の問題から選んで書き上げて書簡を添え、7円切手を貼った返信用封筒も封入、開封にして7円切手を貼って先生に送った。当時、普通郵便は10円だったが、原稿などは開封で送れば7円で済んだ。コッペパン1個が25円、きつね蕎麦が1杯30円で、貧乏書生にとって3円の倹約は切実だった。
 ところが戻ってくる封書は、添削済みの原稿に講評の書簡が添えられ、3円の切手が追加して貼られ10円にしてある。重量超過のせいかと、H先生に恐る恐る尋ねてみた。
 すると、「君は、手紙を同封してくるでしょう。開封で割引きになるのは、原稿や印刷物であって、書簡が入っている限り通常の郵便物です。細かいことだけれど、きまりは、きまりだから」と言われ、顔から火の出る思いをした。
 規則を守れ、という教訓に留まらず、封筒に鋏を入れ「開封」と朱書すれば、中身を検められることはないだろうと高をくくった小ずるさを厳しくムチ打たれたと、Yは心底から恥じたという。(;)