平和憲法と自衛権(上)2005年05月02日 08:07

 1947(昭和22)年5月3日、「恒久平和」を願って新憲法を施行した日本は、すぐさま厳しい国際情勢の試練にさらされる。翌1948年4月・ベルリン封鎖、49年4月・NATO結成、同10月・中華人民共和国の成立、50年6月・朝鮮戦争の勃発……。
 日本は、否応もなく東西対決の枠組に組み込まれ、憲法には定めのない、国家としての「自然権に基づく自衛権」を発動するための現実機能を、早急に備える必要に迫られた。
 こうして、実体的な国防機能である警察予備隊が50年に創設され、52年の保安隊への改組を経て、54年には「専守防衛」を歯止めとして、陸海空三軍を擁する自衛隊へ発展していった。
 現行憲法は、条文上、独立国家としての「自衛交戦権」「自衛戦力の保持」「集団的自衛権」を一切否定し、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否定」を明示して、国家の主体的安全保障の道を閉ざしている。つまり、国の基本法である憲法に、国防を担う軍隊の存在と機能を認める条項が初めから欠けているのだ。法理論上、自衛隊が「違憲の存在」であることは明白である。
 一方で今日、日本の現実は、国防費では年間約5兆円と、今や米ロに次ぐ防衛大国に発展、ハイテク化された装備も世界のトップ水準に達して、国際社会からの武力貢献期待も高まっている。
 ではなぜ、憲法が認めない自衛隊が、国家の機関として存在しているのか、存在しうるのか。
 そもそも、個人に「自然権としての基本的人権」があると同じく、国家や民族といった集団にも「自然権としての主権」、そしてそれを守る「自衛権」が本然的に備わっている。──そう考えないと、民主主義の根本理念である「基本的人権」が、天与のものであるという理屈と整合しない。国家の自然権である「自衛権」は、人権同様、ア・プリオリなものとして国際的に認め合って久しい。
 だから戦後政治は、「国の自衛権」を掲げていない、理念上欠陥のある憲法を実体的に補う形で、国際社会の現実に合わせ、自衛権の体現としての自衛隊を育ててきたのであった。(;)

改憲論議の自由(下)2005年05月03日 08:14

 「平和憲法」を戴いたまま、戦力である自衛隊を保持するのは、いわば政府が超法規的に既成事実を作った結果で、国家の自己欺瞞がなした国体の矛盾である。放置していいわけはない。放置したことが、国民の広範な遵法意識の衰えを生んだとも言える。
 だが、こうなったのも冷戦時代の現実が極めて厳しかったからだ。国際紛争は専ら武力によって処理され、世界的な「革命」を志す勢力が、国内でも力を増していた。この勢力は平和憲法の護持を掲げていたが、その狙いは、日本が軍事力によって西側陣営に加担するのを防ぐことにあった。その証拠に、東側の核武装には必ずしも反対はしなかった。
 国内の自由民主主義勢力も、軍国主義の復活を恐れて、国防の正当な位置づけをためらっていた。何より、「平和憲法」を授けたアメリカが、経済復興で精一杯の日本の安全を"同盟国"として、核の傘で守ってくれていた。──かくして、あなた任せの国防と、国民の平和ボケが定着した。
 1980年代の終わりに冷戦構造が崩れ、新たな民族主義と多元化の時代が始まった時、ようやく日本に、自分の国は自分で守るという「自然権に基づく自衛権」の理念が甦った。国防の位置づけを含め、今や憲法改正は焦眉の現実対応として、国民の誰しもが改憲論議に加わるべき時である。──ところが、改憲に関する奇妙な言論抑圧が、あろうことか言論界から起きている。
 自民党憲法改正案起草委員会の中谷元・委員長(元防衛庁長官)が、防衛庁の幹部に改憲についての意見を求めた。幹部らは専門的な立場からこれに応え、安全保障分野で必要と考えた改正点を8カ条の具体的な改正案文にして提出した。2004年7月末のこととされる。同年暮れになって各紙がこれを一斉に取り上げ、ほぼ異口同音に「文民統制」や「公務員の憲法順守義務」の視点から、この行為は「問題になりそうだ」と報じた。つまり、意識的にあげつらったのだ。
 このような見方は果たして妥当か。憲法の理想と現実の狭間で、"日陰者"の立場に耐えてきた国防の実務者が、改憲について意見を述べてどこが悪いか。防衛庁幹部であれ、国民としての改憲論議への参加を遮るのは、言論の自由の侵害ではないか。新聞人の見識を問いたい。(;)

模型飛行機2005年05月04日 08:17

 空を飛ぶものは、少年の心を捉える。まずは鳥。青く澄んだ大空を悠然と飛ぶ鳶なども、子ども心には、何とも優雅で、高貴な姿に見えた。
 飛行機となると、その魅力はまさに魔性である。昭和の初め、羽田だったか多摩川べりだったかで、当時まだ珍しかった単葉機の曲技飛行を見た晩は、興奮してなかなか寝付けなかった。
 小学校の高学年になると、模型のグライダーや飛行機を盛んに作った。近所に、中学生で模型飛行機作りの名人Uがいて、弟子のような気持ちで製作を手伝ったり、教わったりした。中学生といっても、旧制の生徒は大人びていた。
 Uも、弟子を従えて新しい機体の試験飛行をするのは、いい気分だったようだ。なにしろ、近所の子たちに評判の名手だったから、試験飛行をする時には、大勢の子どもたちが見物に寄ってきた。当方もまた、製作協力者の意識があって、滞空時間の長さを誇る「Uさん号」が得意であった。
 Uの作り方には、一つの特徴があった。基本は、当時「A─1」と呼ばれたタイプのゴム動力機で、胴は細い角材一本、翼のへりは竹ヒゴ、主翼には薄い桐材のリブを付けて、翼の上面になだらかな流線型を持たせるとともに補強した。
 竹ヒゴは、普通、ロウソクの火であぶりながら、設計図にあわせて曲げていく。Uは、ロウソクの代わりにアルコール・ランプを使った。主翼作りの、この辺の細工が最も難しいのだが、Uは決して設計図通りには作らなかった。いくぶん丸みを持たせ、主翼の面積を大きくしたり、胴の長さをかなり長くしたりした。
 感心したのは、ゴム動力で旋回しながら二十メートルほどの高さまで上昇し切ったところで、プロペラシャフトと尾部のフックから、ゴムひもの束が脱落し、地上に落ちる仕掛けを工夫したことだ。双方のフックの曲げ角度を調整したのだが、この結果、最高高度に達した機体は、ゴムひもの分だけ軽くなり、滞空時間が大幅に伸びた。ゴムひもを回収に走るのは、もちろん、弟子だった。(;)

同じ誕生日2005年05月05日 09:08

 その小学校のクラスでは、その日が誕生日の子を教壇に立たせ、みんなでお祝いの歌を唄う習慣になっていた。戦争中でも、そんな心優しさはあった。30人ほどのクラスで、ほとんどの子が1人で壇上に立ったが、YとTだけは、毎年2人並んで教壇に立たされた。誕生日が、全く同じ日だったのだ。
 ある大会社が工場を構える北辺の地の"企業城下町"で、その従業員と家族だけで成り立っているような小さな町だったが、ホワイトカラーとブルーカラーの集落は、画然と別けられていた。だが小学校は、2つの集落に1校だけで、子どもたちは両方の街から通って来ていた。
 Yは、丘の中腹に並ぶホワイトカラーの社宅から通った。成績が良く、当時は席次で決められた級長を続けていた。一方のTは、工場近くのブルーカラーが住む社宅から来ていた。虚弱体質の上に、鼠径ヘルニアの持病があって、肥大した陰部をクラスの子どもたちが、寄ると触るとからかった。
 そんな時、「およしよ」と言って止めに入るのは、級長のYだった。すると、悪童たちの矛先は、Yのおデコに向けられた。子どもも、群れになるとひどく残酷だ。
 誕生日の晩、Yは両親にTの話をした。「そういえば、お前が生まれた時、夕方からうちに詰めていた産婆さんを迎えに、何度も迎えに来た人がいたっけ。まだか、まだかって。──その子だったんだな、T君は」と、父親が言った。たった1人の町の助産婦を、奪い合った仲だったのだ。
 Yは、この事実を聞いて衝撃を受け、虚弱なTに負い目を感じた。そして、人生に「境遇の違い」が大きく働いていることを知った。やがて、父親の転勤のため一家は町を離れ、2人が再び会うことはなかった。Yは大学を出ると新聞社に入った。貧困の解消や社会的平等が頭を離れず、ジャーナリストの道を選んだ。原点は、あの晩の衝撃だった。
 一方のTは、生涯を地元で過ごした。中学を出ると、自動車修理工場で働き、運転手に転職して発憤、営々と励んで、晩年小さなタクシー会社の社長になった。幼少期の気後れがほぐれず、YはTと接触しようとしなかったが、人伝にその消息を聞いては、今も安否を気にし続けている。(;)

ボスの消えた日2005年05月06日 08:40

 今の小中学校でも同じではあるまいか。昔からクラスには、必ずガキ大将がいた。
 神さまは人間を平等には作らなかったから、腕力や体力、すばしこさや体格といった、物理的な力量がモノを言いがちな子どもの世界では、当然のように強い者が支配者となる。体力の強さに、成績の良さがちょっと伴えば、鬼に金棒の権力者だ。もっともこれは、大人の世界でも本質は同じか。
 ただ、成長の早さにばらつきが目立つ年齢だ。急に背が伸びたり、めきめき逞しくなったり、ぐんぐん成績が上がったりする者が出現するから、ガキ大将とて安泰ではない。
 中学2年のころ、「ボス」と呼ばれていたクラスのガキ大将はTだった。小学校の時分から柔道を習っていたと自称して、朴歯の高下駄を履き、わざとボロボロにした学帽をかぶって、あまり清潔でない手拭いを腰にぶら下げていた。旧制高等学校のバンカラを気取っていたのだ。そのくせ、女世帯に男の子1人のせいか、ふわっと美顔クリームの匂いを漂わせたりしていた。
 悪い癖があった。気に入らないと、いきなり殴った。先制攻撃が常套手段だった。めげずに立ち向かって行く子があると、怪しげな足払いなどを掛けて、組み敷いてはポコポコ殴って泣かした。
 サルの群れの序列を決めるマウンティングのようなもので、1回殴られた子は、以後あえて逆らわなかったから、長いこと権力の座に君臨した。何人か、威を借る取り巻きができていた。
 中学では、夏休みに入る直前、近くの海岸の砂浜に大きなテントを張って、3日ほど連続で水泳を教えた。ひとしきり海に入って泳いでは、テントに戻って休憩した。政変は、このテントで起きた。
 Gという子がいて、ちょっと口のきき方がまだるっこくて、よくからかわれていたが、急に体が大きく逞しくなった。後にロシア語を学んで、ある新聞社で修行し、家業を継いだ。晩成型の器であった。
 テントで休憩していた時、何が気に入らなかったのか、TがいきなりGの顔面を横ざまに殴った。日焼けしたGの顔が見る見る土気色になる。次の瞬間、Gの渾身のストレートが、Tの鼻っ柱に突き刺さった。鼻血が出て、テントは騒然となった。Tは、反撃しなかった。体格では、すでにGが上回っていた。その日限り、クラスにボスがいなくなった。(;)