野球も教育だ2005年08月09日 08:07

 高校野球が教育の一環だなどというと、「今さら」と怪訝な顔をする人が今では多い。夏の甲子園大会の前身である全国中等学校優勝野球大会が、1915(大正4)年8月18日、豊中球場で1世紀に及ぶ球史の第1ページを開いた時、主催者の大阪朝日新聞社に、野球人気の高まりに乗じて部数を増やそうという下心が働いていたことは、確かに否定できなない。
 『朝日新聞社史』には、開催に至る過程で「同業他社の妨害などさまざまな悪条件」があったとしか書かれていないが、実はこの大会、ライバル紙の大阪毎日新聞社が企画中だったものを横取りしたという"業界秘話"があるくらいで、激烈な新聞の販売競争の一産物だった。
 だが、大会開催への抵抗は、むしろ身内にあった。創業者村山龍平のお膝元で、近代的商業紙への道を固めていた大阪朝日に対し、東京朝日は、編集権が不確かな時代でもあって、同じ資本傘下ながら啓蒙的な政治・政論新聞への道を固執する編集人が多く、野球を青少年不良化の温床として、1911(明治44)年前後には「野球撲滅論」を展開していた。
 こうした事情も手伝って、朝日は全国規模の大会を軌道に乗せるために、中等野球の教育的側面にこだわった。第1回大会開幕の前夜、全国10代表の選手を招いて催した茶話会では、鳥居素川編輯長が自ら挨拶し、審判委員から「徳義を基本とした善戦」が強調されたという。試合を報ずる記事でも、野球を「人生修養の手段」と位置づけ、「学業との両立」が説かれた。
 日本で初めて成文化された81条からなるルール・ブック「最新野球規則」が誕生し(1916年)、試合開始前にホーム・プレートを挟んで両チームが挨拶をしたり、死球を与えた投手が脱帽して一礼する、本場アメリカにはない日本独自の「礼法」が定着したのも、この大会からだった。つまり、大会創設の根本に新聞社の商業主義があったことは事実だが、それは「良き商品」を広めようとする動機からであり、大会では規則の順守・礼儀・徳義の品格と教育が強調されたのだった。(;)