球を繕った頃2005年08月19日 08:24

 1950(昭和25)年春、私は湘南高校に進んだ。野球部が夏の甲子園で優勝した翌年である。当事の湘南は「知・徳・体の三位一体」を掲げ、生徒全員がいずれかの運動部に所属することを原則としていた。すでに新聞記者を志していた私は、新聞部と写真部に席を置いたが、体力には自信がなく、運動部の選択に迷った。結局、同じ中学からの学友で、野球部に入ったSと、後年、慶大主将を経てプロに入った剛球・豪打のMに誘われ、マネジャーならと、同部に加わった。
 野球部の裏方は、予想以上にたいへんだった。練習が終わる日暮れからがマネジャーの出番だ。無い無い尽くしの時分で、野球用具は貴重品だった。特にボールは、草むらをかき分けて残らず回収した。白球を使うのは試合と投球練習だけで、普段はタドンのような色をした使い古しを追った。
 硬式ボールの外側は、8の字型の革2枚を縫い合わせてできている。この糸が、よく切れた。切れると使い物にならない。選手らが帰った汗臭い部室の裸電球を頼りに、凧糸を縒って補強した糸を畳針に通し、ボールをいくつも繕った。掌が糸で切れ、血がにじんだ。大会が迫ると、部長のI先生と、先輩や町の有力者を回って寄付集め。強化合宿の際は、OB提供のオート三輪に同乗し、部員の家を回っては布団やコメ集め。三度の献立に腐心し、よく「特性カレー」でしのいだ。
 1951年、選抜に選ばれて春の甲子園に行った。ベンチに入れる人数が限られており、マネジャーは応援席に陣取った。長雨で試合が何日も延び、チームの調子が狂った。1回戦で長崎西と戦い、1-0で追う9回裏、Sが代打で右前にヒットし、1死2・3塁と迫ったが及ばなかった。
 その後、旧制中学時代に入学した3年生が率いる応援部の強制動員に反発し、6・3・3新制入学組のOやNと全校集会で反対演説をぶった。応援される運動部のマネジャーが応援部に楯突いたのだ。主将・佐々木信也に頭を下げて辞任した。でも、納得できない強制には従えなかった。(;)