スターの最期2005年08月22日 08:05

 「球を繕った頃」で触れた中学・高校の同期Mは、衆樹資宏(もろき・すけひろ)のことである。彼は、中学の頃からがっしりとした体格に恵まれて背も高く、ピッチャーで4番、キャプテンという典型的な野球のスター・プレイヤーだった。その剛球・豪打を牽引力に、藤澤市立一中野球部は中学レベルでは向かうところ敵なしで、旧制中学時代に入学した湘南高校の1年生チームさえ撃破していた。
 衆樹の入部で、湘南に剛球投手と強力なスラッガーが備わった。部員はせいぜい20人。手が足りないから、時に衆樹の投球練習の相手をしたが、シュートがかかった速球は、ただ受けるだけでも怖かった。ある日の練習で、2年生部員のIが、衆樹の投球を左側頭部に受け、昏倒した。「動かさないで!」と言い残して、自転車で息せき切って医師を呼びに走った。医師を連れて戻った時には意識を回復していたが、舌も乾くほど焦った。Iは後年、某医大の学長になった。
 甲子園優勝の翌年は、春の選抜大会のお呼びもなく、夏は県大会の2回戦で予想外の敗退を記録した。しかし、衆樹の成長もあって、51年春には選抜代表に選ばれ、その夏は県大会の準々決勝まで行った。翌52年は、県大会で決勝まで進んだが、立ち上がりに法政二高のバント攻めに揺さ振られ、予想もしなかった8-0で敗れた。法政二高は初めての夏の甲子園行きだった。
 衆樹は、慶応に進んで、後に主将に選ばれ、神宮の東京六大学では、1955年春に三冠王、56年秋にシーズン最多三塁打5本の記録を残した。卒業後プロ入りし、毎日→大毎→阪急→南海と転々としたが、確か阪急在籍中に頭部に死球を受けてから、急に打てなくなった。まだヘルメットのなかった頃で、会った機会に体調を尋ねたら、「訊くなよ」と、ひとこと言った。
 プロを引退して後の"余生"が、長く寂しかった。熱狂のファンに囲まれた栄光の日々を忘れられず、屈折した傲岸さと荒れ酒を疎まれ、友だちも1人、2人と離れて行った。99年6月25日、病室で最期を看取ったのは、3人の旧友だけだった。スターの面影は、今もユニフォーム姿だ。(;)