新妻の眼差し2005年12月01日 08:03

 Mは、私が駈け出し記者として新聞社の県庁所在地の支局で働いていたころ、県内の地方都市にあった通信局で、管内の数市町村を取材範囲にしていた。
 支局員とは違って、通信局は年中無休。1人で何もかもをカバーしなければならない。勢い、早婚の人が多かった。1つ年上だったMも、結婚したばかりだった。
 通信局の取材範囲は、個々の支局員より遙かに広かったから、オートバイが配備されていた。旧軍も使った「陸王」という名のナナハンで、馬力もあるし、スピードも出た。
 記事も写真も求められる地方記者にとって、火事と事故は厄介なシロモノだ。とにかく早く現場に着かないと、写真を撮り損なう。不謹慎といえば不謹慎だが、火の消えた火事場、跡片づけが終わった後の事故現場など、報道写真にはならない。だから、火事だ、事故だとなると、まずカメラをひったくり、警察や消防と競って現場に駆けつける。殺人や強盗のような、事件取材とは違った先陣争いがあった。
 ある午後、通信局で原稿を書いていたMは、近くの消防署からサイレンを鳴らして消防車が出動したのを知った。カメラ・バッグを肩に引っかけると、オートバイで後を追った。消防車は信号無視も天下御免の猛スピードだ。Mのオートバイは5メートル後ろまで追い付いた。
 突然、子どもが前方を横切った。消防車がタイヤをきしませて急ブレーキをかける。目の前を消防車の巨体に遮られて走っていたMは、ひとたまりもない。全速で赤い車体に激突した。子どもは無事だったが、Mは左大腿部の複雑骨折など、全身に重傷を負った。
 地元の病院の治療がうまく行かず、支局員が手を回して県央の大学病院に転院させた。手術が繰り返され、入院の1年余、新妻は付き添って離れなかった。風に飛ばされそうな華奢な女性だったが、強かった。Mを見守る、祈るような愛情の眼差しには、見舞うたびに感動させられた。
 Mは、終生、脚を引きずって歩くようになった。二人暮らしだったせいか、妻はいつも楚々として若々しかった。その妻を遺し、Mは肝臓癌で逝った。40代半ば。輸血の後遺症は明らかだった。(;)

読まれた恋文2005年12月02日 08:05

 新聞社の地方支局に勤務していたころ、許嫁が遠方にいて、しばしば手紙を交わしていた。
 夜勤の晩などに、やっと時間を見つけて書いていると、事件の突発で飛び出すことも多く、書きかけの便箋を、最近の着信や封筒、住所録、切手などと一緒に、社名入りの大きな茶封筒に突っ込み、ロッカーの天板の上に置く決まりにしていた。
 たまたま管内で日教組の教研集会があって、本社から文教担当のベテランY記者が出張して来た。大器の風格がある優れた記者だったが、その分、まるで些事にはこだわらない。言ってみれば、1にも確認、2にも確認で、キリキリ仕事をする新聞記者の中では、むしろ異端だった。
 まず、開会に遅れて来た。夕刊の早版に、原稿を送り終えたころ、悠然と現れ、「ま、いいでしょう。いずれ、始まるものは始まる……」と、新米記者を驚かす。
 分科会に出かけて行って、夕方、のっそりと戻って来た。足元を見ると、当時トイレで使われたワラ縄で編んだスリッパ状の突っ掛けを履いている。どうしました、と問うと、「誰か、私の靴を履いて行ってしまったらしくて、……」と、油気のない長髪を掻き上げて、力なく笑った。
 靴箱に打ち捨てられていた踵の減った古靴を見せると、「あ、これでいい。なんとか履けますわ」と、翌日からその靴で取材に出かけた。
 何日かの滞在ののち帰って行ったが、その晩も私は宿直で、例の書きかけ便箋を入れた茶封筒を捜した。が、置いたはずの場所にない。終いには、屑カゴの中まで掻き回したが見当たらない。住所録がなくなったのも痛手だったし、気色の悪い思いを抱えた。
 翌々日、本社からの便に混じって、問題の茶封筒が送られてきた。同封して、「大切なものを、粗忽にも誤って持ち帰ってしまい……」と、Y記者の丁重な詫び状が添えられていた。社名入り封筒私物化の怖さを、思い知らされた。
 後年、デスクとヒラの関係で再会する。恋文の相手とは、すでに結婚していた。静かな夜勤の晩、「あれは、読まれましたか」と聞くと、ただ「うふふ」と笑うだけだった。(;)

利己主義の友2005年12月05日 07:59

 Aは、中学のころ仲のいいグループの一人だった。父親が医師で、戦前まで中国・青島で開業していたため、裕福な環境に育ったようだ。
 持って生まれた性格なのか、育ちなのか、徹底した利己主義者だった。クラブ活動とか団体競技には拒絶的で、進んで参加しようとはしない。むしろ、そうした組織活動に熱心な級友を、嘲笑するところがあった。
 それなのに、なぜか私たちのグループには加わって、皆からも憎からず思われていた。一つには、乱読型の非常な読書家で、しかも年齢不相応な書物を仲間に先んじて読破し、みんなに刺激を与えていたからだ。
 『チャタレー夫人の恋人』とか『金瓶梅』、バートン版の『千夜一夜物語』の存在は、どれもAから教わった。性的にも、かなり早熟だった。
 大陸に住んだころのAの話で、今なお不快な気分を蘇らせるのは、貧者に対する、彼の無神経と金銭感覚を示すエピソードだ。──旧ドイツの租借地・青島でのAの家族は、通りに面した近代的なアパートの上層階に住んでいたそうだが、ベランダから兄弟で身を乗り出し、少額の中国紙幣を撒くと、現地の子どもたちが舗道に大勢群がって、ヒラヒラ舞い落ちてくる紙幣を掴もうと、押し合いへし合いするのが「面白かった」というのである。
 戦後、日本人の海外進出が再び盛んになると、同じような姿勢で、現地の人々を見下す者がいるのを何度も見聞きした。札ビラで頬を叩くより、さらに下劣な行いであり、どれほど日本人の印象を損ね、禍根を残したことか。
 大学に進んでからのAは、ラディゲの『肉体の悪魔』に心酔するような、享楽的な暮らしを求める一方、その大学の校風もあって、金儲けにも情熱を傾けた。
 期末試験が近づいたころ、ひょっこり訪ねて来て、経済学の原書を差し出し、「時間がない、助けてくれ。この章を全部、邦訳してほしい」という。「それでは学問になるまいが……」と言ったものの、人助けだし、自分の勉強にもなると思って引き受けた。
 数週後、Aの学友から、「君の訳文を、Aはガリ版屋に持ち込んで印刷させ、法外な値段で級友らに売り、カネ儲けを自慢している」と、聞かされた。
 求めもしなかったが、Aからは1円の謝礼もなかった。(;)

欺きの世渡り2005年12月06日 08:05

 Aは、大学を出ると大手の証券会社に入った。が、しばらくすると辞めた。ある大金持ちの妻の莫大な資産の運用にしくじったせいだと噂が流れたが、友人たちにも行く先を告げず、日本から消えた。アメリカとも、ドイツとも、不確かな消息が、思い出したように語られた。ところが、数年後、外資系大手事務機メーカーの日本法人副社長という肩書で現れ、友人たちを驚かせた。
 妙なことに、その会社も数年で辞めた。何があったのか語らなかった。が、こんどはドイツ系の結婚仲介会社の日本代表という名刺を撒いた。広告で"ブランド力"を付けることや、マスコミをうまく利用して新聞・雑誌・テレビに、スマートに働き豪勢に遊ぶ”青年実業家”の姿を紹介させ、ビジネスに活かしていった。大型ヨットなどに乗せられる、メディアもメディアだった。
 そのころ、名声と購読者を重んじていた新聞は、読者に被害を及ぼす恐れがあり、風俗犯罪の懸念もあるという理由で、広告掲載基準に明記して、結婚仲介業の広告は載せなかった。
 Aは、そこに目を付けた。そのような良心的な新聞に広告を載せられれば、会社の信用は一気に高まり、良質な顧客を数多く集められる、と考えた。たまたま、ある良心的新聞の広告掲載審査部門の責任者が、Aの旧友の私だった。
 これを知ったAは私を訪ね、自社の結婚仲介システムがいかに近代的であり、人権に配慮しているかなどを弁舌さわやかにまくし立て、「友達だろう、例外として広告を載せてくれ」と懇願した。
 だが、私は断った。友情は友情だが、新聞社には新聞の立場があり、現に規則は動かせないと。
 ところが、その直後に私が異動になって広告部門を離れた。Aは、この情報を掴むと新聞社を再訪し、「前任者から許可をもらっている」と、新任の責任者を丸め込んで、広告を載せることに成功する。騙される方もお粗末だった。切れた堤からは、この業界の広告がどっと流れ込んだ。
 期待の広告だったが、すでに業界は過当競争になっており、不祥事も起きてAの会社も先細った。
 Aは、逃げ足早く古巣の証券業界に舞い戻ったが、しばらくするとまた消息を絶ち、消えた。(;)

越せない垣根2005年12月07日 08:10

 中学のころ、Bは急に身長が伸びた一人だ。平均的な子と比べ、頭2つくらい背が高かった。内気な性格で、人前で派手に振る舞うのが苦手だった。
 だから、ノッポで目立つのを嫌うように、ちょっと猫背に、うつむき加減に歩いた。大口をあけて笑うことがない少年で、何か寂しげだった。
 左利きで、背が高いのを見込まれ、野球部に誘われてファーストや外野を守り、リリーフ投手もつとめた。軟投型で、ドロンとしたカーブが武器だったが、豪腕の「不動のエース」がいて、あまり出番はなかった。でも、暗くなるまで熱心に練習に励んだ。
 高校、大学は別だったから、別れて40年以上も会うことがなかった。が、ある時、共通の旧友Tから「Bが、お前に会いたがっている」と連絡があって、3人でメシを食うことになった。私の文章が、ある月刊誌に載っているのを見つけて、会いたいと、Tに声を掛けてきたのだという。
 Bが大学を出て、都心の、ある盛り場をシマにする暴力団に加わったことは聞いていた。関東一円に勢力をもつ組織の一派で、Bは半生をかけて幹部にノシ上がり、組織のナンバー2にまで”出世”していた。それだけに、いささかの警戒感がないではなかったが、持ち前の好奇心もあり、幼馴染みが会いたがっているのに、分別は要るまいと出掛けた。
 会ってみれば、人なつっこく、少年のころと同じお国訛りをむきだしにして、昔を懐かしむ老境の男だった。
 やっぱりと、それでも驚いたが、左手の指が3本短かった。「いろいろ、あってよう」とだけ言った。大学出の極道の、”出世”の代償だったのだろう。
 その後、中学の有志同窓会に誘ったら、きちんと背広を着て現れた。昔を懐かしむ仲間の輪に囲まれて嬉しそうだったが、後日、「なぜ、あんな者を呼んだ」と、私とTを非難する者もいた。
 察したのか、出席したのはそれきりだった。
 3年後、癌で逝ったと知らせがあった。重篤になって、身内が「Tさんたちに、知らせなくていいのか」と尋ねたら、「こんなざまぁ、あいつらに見せられるか」と峻拒したという。
 葬儀にも、「堅気のお方は、ご遠慮を」と連絡があった。そんな別れだった。(;)