弱い自分とは2006年01月04日 08:03

 去年の暮れから、世間に不安と不信をばら撒いている「耐震強度欺罔事件」は、年明けさらに波紋を広げそうな気配である。
 新聞などは「耐震強度偽装事件」と呼んでいるが、これは明らかに計画的な詐欺であり、上辺を繕って他を欺く「偽装」のようなナマやさしい悪事ではない。他人の生命を危うくする犯罪であり、「欺罔」とか「詐欺」という言葉を使うべきだ。
 それはさておき、この事件で国会の証人喚問に呼ばれた姉歯秀次元1級建築士の証言には、身につまされた人が多かったのではないか。
 彼は、設計発注者の木村建設東京支店長に、強くコスト削減を求められる。これに応えるには鉄筋を減らすしかないことを識っていて、「これ以上はできない」と断ったが、「それなら他の事務所に頼む」と告げられると、「病身の家族もいることだし、注文を断たれては、やって行けない」と、結局、引き受けてしまったことを告白した。そして、違法であることを識っていながらやったのは、「弱い自分がいたからだ」と、述べたのだった。
 確かに、人間の内に別の弱い人間が潜んでいるように見えることがある。日ごろ、強い人間と気張っていたり、また、他人には強い人間のように見えていても、案外もろく内なる弱さをさらけ出してしまう例を、何度も見てきた。
 しかし、多重性格のような病的なものは別として、人間が入れ籠人形のように全く異なった人格をさらけて、普段はしないことをするというのは頷けない。
 結局、姉歯元建築士の告白も、自分の悪行の責任を他に転ずると同じ、弁解の類にすぎまい。もともと、この人物は善悪の判断に弱かったと言うべきだ。それも、もし大地震が起きたら、他人の命が失われかねない悪事を、自分の生存のために敢えてなすほど、自分に弱かった。
 ここでいう人間の弱さは、やってはならぬことを目先の利益を優先させてやってしまう弱さである。それは、社会人として生きて行く「術」は教えても、生きる上での「善悪良否」や「基本的な倫理」について、親も師匠も学校も宗教も、満足に教えなくなった時代の必然的な産物である。(;)