文明の衝突(2)2006年02月08日 08:02

 日本語で、しばしば不用意に「イスラム教」と表記される「イスラーム」は、単なる「宗教」ではない。イスラームを信仰する人々「ムスリム」は、「教」と呼ばれる他の宗教とイスラームを区別して、「イスラム教」という呼称を拒否する。
 なぜか。──イスラームと同じく、世界各地に信者を持ち、創始者としての教組を有する「世界宗教」であるキリスト教や仏教は、本質的に一個の人間、つまり個人の「心の救い」を宗教の第一目的とする。そこでは、まず個人があって、国家や社会のあり方は別次元のものとして扱われる。
 西欧に「キリスト教民主主義」とか「カトリック社会主義」を標榜する政党がいくつかあるが、これらにしても、キリスト教やカトリックを信ずる同志が集まって、それぞれの教義に相応しい国家・社会の建設を目指すものであるにすぎない。つまり、教義に基づいたあるべき社会像を前提として結集している政党ではなく、言ってみれば、信仰を同じくする者の政策集団である。
 これらに比べ、イスラームは、個々人の心の救い・安らぎと同時に、社会の安寧を求める絶対の「生活規範」であるとムスリムは言う。そこには、唯一神「アッラー」と人間とが一体になって構成し、政治・経済・社会活動を共にする生活共同体「ウンマ」のあり方を、個人のあり方と並行的に考える姿勢がある。実は、この点がキリスト教とイスラームの根本の違いになっている。
 個人と社会のあり方を並行して追究し、しかも、全てにわたってアッラーの絶対性を信じるところから、ウンマを侵す敵に対しては仮借ない反撃「聖戦=ジハード」が正当化され、「自爆特攻」などの自己犠牲を、ムスリムはためらわない。アッラーとウンマに殉ずることは、天国への道なのだ。
 同じ唯一絶対神を奉ずるユダヤ教、キリスト教とイスラームだが、個人と社会のあり方を並行的に考える点で、やや乱暴に言うと、イスラームの方が社会主義的、絶対主義的要素を持っていると言えるだろう。そしてこの"宗教観"の違いが、文明の衝突の一つの重大な核になっている。(;)