文明の衝突(4)2006年02月10日 08:22

 「人間中心主義」は、必然的に人を傲慢にする。人間の能力を信じ、極小の原子核の世界から宇宙の果てまで、遺伝子の組み換えや新たな生物の創作まで、人智で解明し行えぬものはないとする科学が信奉される。しかし一方で、宇宙・万物の始まりや、生命の起源という元始の部分で、なお人智の及ばぬ世界があり、人々は、死を前提とした生の不安からも、なお解放されない。
 しかし、欧米流の人間中心主義に依存する人々は、殺してしまった神に今さらすがることもならず、擲った戒律には従う術もない。もともと、人が人の力で人を律することは、不可能に近い。結果として、人々は欲望と放縦にのめりこむ。遂には、相手が富者であろうと貧者であろうと、何千キロも出掛けて行って、持てる者から奪い、奪うために騙し、殺すまでに至る。
 個人の生き方も、際限のない欲望が支配する。かつては「戒律」と重ね合わせになっていた「道徳」が崩壊し、親子や家族、男女の関係をはじめ、当事者だけの幸福感にとどまる新たな不幸を生んで行く。人間を中心に置いてはみたものの、確固とした「人のあり方」と「社会的規律」の理念を失った報いである。
 このように、神と縁を切った西欧文明の「頽廃」と比較する時、今なお神と預言者の教えを信じ、神とともに人々がつくる共同体ウンマで戒律に従って生きているイスラーム世界に、なぜ西欧の人間中心主義の成果である「民主主義体制」を押しつけなければならないのか、私は全く理解できない。しかも、イスラーム世界の国家は、16世紀この方、外国を侵略した歴史を持たない。
 すでに「敬虔」が死語になりかけている欧米文明に比べ、ムスリムの敬虔は行動を伴う。イスラームの基本は「六信五行」にあると言われ、ムスリムは、神・天使・使徒・啓典・来世・神の予定という6つを信じる「六信」から始まり、この信心を言葉や動作・行動で明示しなければならない。この言葉や行動が「五行」と呼ばれるところの、信仰告白・礼拝・喜捨の義務(ザカート)・斎戒・巡礼の5つと決められている。心に確立したことを実際に行う点で、ムスリムの敬虔さは実体を伴う。(;)