文明の衝突(11)2006年02月21日 08:03

 ムハンマドの生涯は不明確な点が多い。40歳のころ、メッカの郊外ヒラー山の洞窟で瞑想にふける中、ある日突然、光輝く天使ジブリールに最初の天啓を受け、メッカの街角に立って辻説法を始めるまでの半生は、ナゾに包まれている。
 出自とて定かでなく、生年も西暦570年ころとあいまいだ。幼くして次々に両親を失い、祖父や叔父に育てられたという。青年に達し、隊商の一員として働くうちに、富裕な商人の未亡人ハディージャに見込まれ、やがて40歳の彼女と結婚する。時に25歳。結婚もナゾめいている。
 当時のアラビア半島は、ササン朝ペルシャや東ローマ帝国の影響下にある政治的空白地帯で、ユダヤ教やキリスト教を信ずる者が増えていた。年上の妻ハディージャも、これらの一神教に親しんでおり、ムハンマドがイスラームの教義を固めて行く上で"内助の功"があったようだ。
 ムハンマドが、神と人間の共同体「ウンマ」の理念を説いたのは、俗社会が腐敗堕落した長老支配に停滞し、カーバ神殿を中心に栄えていた多神教が、大衆を惑わすありさまに反発したからだった。つまり、ムハンマドの説くイスラームは、反体制的な宗教的社会改革運動でもあった。
 このため、彼の周りに同調者としての信徒が増えるにつれて、体制側の締め付けが厳しくなり、暗殺者に追われるようにメッカを捨ててメディナヘ移る。西暦622年9月のことで、イスラームでは、これを「ヒジュラ」と呼んで、イスラーム暦元年としている。
 メディナに移ってから632年に病歿するまでの10年間、ムハンマドはいくつかの激しい戦を経験した。相手はメッカに拠る多神教の信者や、反体制的な世直し運動を圧迫するユダヤ教徒だった。
 惨敗もあった。624年10月のメッカ勢との「オホドの役」では、700人の手勢で3000人以上の敵と戦い、74人の戦死者を出した。クルアーンに、遺産の処理や一夫多妻容認の記述を留めたのは、戦で逝った信徒の、遺された妻や子の救済のためだったとの説もある。啓典が世俗的・現実的である所以だ。(;)