文明の衝突(17)2006年03月01日 08:10

 日本の新聞には報じられていないようだが、アメリカのウェブでひどいイスラーム差別が起きていたことを、2月24日のCNN電子版が伝えている。
 米北中部ウィスコンシン州に住むエド・キャラハン(Ed Callahan)さんの母親、リンダ・キャラハンさんは、インターネット・サービス大手のヤフーが提供している無料のメイル・サービスで、本名のLinda Callahanを使ったアドレスを取得しようとしたが、何度やってもうまく行かない。
 そこで、エドさんが替わって試みたところ、「allah」の綴りが入った名は全てハネられて、アドレス登録ができないことがわかった。言うまでもなく「allah=アッラー」は、ムスリムが日々に唱える唯一神のアラビア語名である。エドさんが、試みに「god=神」「jesus=イエス」「buddha=仏陀」などの綴りが入った単語を使うと、すんなり登録できたという。
 キャラハンさんの指摘で、ヤフーは「悪意のある発言から利用者を守るため」、それまで「allah」を含む名の登録を禁じていたことを認め、規定を変えて22日から「Callahan」もOKにした。Callahanは、英国系によくある姓である。
 西側世界で、広くイスラーム差別があることは、もはや否定できない現実だ。ムハンマド風刺画を最初に特集して「文明の衝突」の新戦線に火を放ったデンマークの保守系紙「ユランズ・ポステン」が、2003年には、投稿されたキリストの風刺画の掲載を拒んでいた事実を、ロイターが伝えている。理由は「出来が悪い絵」だったというが、アメリカのヤフーの例と、よく似ているではないか。
 イスラームを信ずるトルコ系移民を入れて労働力不足を補ってきたドイツでも、露骨な差別が進行中と伝えられる。トルコ系など外人労働者が多い南西部バーデン・ビュルテンベルク州では、今年初めから、国籍取得の適性を見るため筆記試問を始めたが、9.11事件やマドリードの連続列車爆破の犯人を「テロリストと見るか、自由を求めて闘う戦士と見るか」 など、明らかにイスラーム信仰の"踏み絵"とみられる質問が30も並び、南部バイエルンなど他州も倣う動きだという。(;)

文明の衝突(18)2006年03月02日 08:10

 旧植民地のアフリカ系ムスリムを、ドイツと同じく移民労働者として抱えるフランスでは、去年秋の、連夜の暴動騒ぎの記憶が新しいだけに、今度のムハンマド風刺画騒動には、メディアもやや慎重である。
 風刺画騒動を論じた有力紙「ル・モンド」の社説(2月3日付)も、例の、政教分離を意味する共和国の基本理念「ライシテ=Laïcité」と「表現の自由」を示して、「宗教は思想体系であり、信仰は尊重すべきだが、自由に解釈し、批評し、笑いものにさえできる対象だ」と述べつつも、「表現の自由は、人種差別、反ユダヤ主義、性差別、同性愛者への差別に対すると同じく、宗教に対しても規制がある」と、苦悩をにじませている。要するに、自由と自制の狭間で揺れたわけである。
 しかし、「ル・モンド」も「フランス・ソワール」も「リベラシオン」も、「表現の自由と読者への判断素材の提供」を理由に、控えめながら「ユランズ・ポステン」の「ムハンマドの12の顔」の一部を転載した。
 もっとも「リベラシオン」は、「フランス・ソワール」の編集長が、掲載を咎めた上層部によって解任されたことを、「言論の自由の危機」と捉えて転載に踏み切った、という理由付けだ。
 一方で、政治漫画週刊誌の「シャルリー・エブド=Charlie Hebdo」は、ムハンマド風刺画を2月8日号で特集して、普段は5~6万部のところを40万部以上も売ったとされる。
 こうなると、憲法上の建前とは離れた、「言論ビジネス」の匂いが立ちこめる。「自由」に狎れると、人間の中に潜む動物の「業」であるところの、他人を不幸にしても稼ぎたい衝動までが、自由に表に出るのだ。
 因みにHebdoは、Hebdomadaire(エブドマデール)の略で、週刊誌紙を指すフランス語である。
 フランスもドイツも、汚く・きつく・危険な「3K労働」を中心に、労働力不足を移民で補っているうちに、孫子の時代になってその人口も増え、異文化・異教の浸潤に不安を募らせている。
 そんな時だけに、利益本位のメディアによる無神経で「放埒な言論」は、火薬庫での喫煙に均しい。(;)

文明の衝突(19)2006年03月03日 08:10

 この連載の冒頭でも触れたように、前世紀末にインターネットが商用化され、情報の流通と処理の電子化が急速に進んだ今日では、思想・信教をめぐる葛藤も簡単に国境を越え、見る見る世界に広がる。まことに、情報が歴史を加速する時代であって、情報を扱う者の思慮深さと責任が、過去のいかなる時代よりも重要になっている。
 しかし、インターネットが、まず情報流通の性能の良い道具であることを取り柄として普及した結果、情報について学んだこともなく、情報を取り扱ったこともなく、また、その恐ろしさも識らない何億人もの「ズブシロ」が、「表現の自由」の名の下に、情報を放埒に発信するようになった。
 中には、平気で虚偽情報を流したり、ネットを詐欺商法の手段に使ったりする者も現れ、今やインターネットがアナーキズムとの挌闘の場のような状態になっている。
 だからこそ、伝統的な情報メディアが、発信情報の信頼性や正確さ、情報の発掘力や評価能力、そして「伝えるべき情報」と「慎重に扱うべき情報」を的確に濾過・選別する見識の面で手本を示すべき時なのだが、肥大化した商業メディアほど、これらの能力や見識が資本の論理で歪められて人々の信用を損ない、メディア自らも混沌に没して出口を模索しているような状況である。
 このような混乱した情報環境にあって、情報を流血や動乱の点火剤にしないために、最低限守らねばならないことが、宗教を含めた異文化や、異なった価値体系の尊厳に対する周到な配慮、気配りである。
 これは、国家間、民族間の外交や通商にも共通して当てはめられる基本原則だが、インターネットと民族主義復興の多極化時代にあっては、ますます重要性を増している。
 ところが、今度のムハンマド風刺画に発した騒動を見ると、西側のメディアや社会が、自分たちの体系における「自由」が、よその文明圏にも通ずると思い違いをしているように感じられてならない。
 その結果が、イスラームでは描いてはならぬムハンマドの肖像を、こともあろうに戯画化し、自らの通念で正当化するという「無神経さ」に表れ、世界的動乱と100人を超す死者を出したのだ。識るべきは、文明の多様性である。(;)

文明の衝突(20)2006年03月06日 08:03

 世界で最もイスラームの信者(ムスリム)が多く住む国は、インドネシアである。世界中で10億人を超えるといわれるムスリムのうち、この国に約1億7,500万人が住む。同国人口の約9割だ。
 そのインドネシアで、今年の初めから、ムハンマド風刺画への抗議運動と並行して、アメリカの男性誌『PLAYBOY』インドネシア語版の出版計画に反対するデモ騒動が起きている。
 騒ぎは、新年早々、ジャカルタのVelvet Silver Media社が、現地語版『PLAYBOY』の出版計画を発表したことから始まった。同社は米国の本社からライセンスを得ており、3月には創刊号を出すと宣言した。イスラーム圏では、1996年のトルコ語版の休刊以来の『PLAYBOY』だ。
 『PLAYBOY』が、ヌードを売り物とする"ポルノ雑誌"であることは広く知れており、イスラーム団体が一斉に反対の気勢をあげ、1月から2月にかけて、ジャカルタやジョクジャカルタ、スラバヤで、政府に刊行阻止を求める大規模な抗議デモが行われ、政治問題に発展した。
 1965~98年の33年にわたるスハルト政権下のインドネシアでは、「出版刊行物の許認可制度」が、反政府・反社会的な新聞や出版物を厳しく規制していた。これが、98年に学生たちを中心にした民主化運動によって全廃されると、中華街の裏町などの露天に、ポルノ雑誌やセックス・ビデオが氾濫した。だが、強権政治が終わって警察の腐敗が進み、規制も緩くなった。
 イスラーム団体の『PLAYBOY』排斥運動には、西側流の「言論・表現・出版の自由」がもたらした"風紀の乱れ"を、この際、イスラームの教義に沿って根本から正そうという原理主義者の主張が原動力になっている。女性は、肌を曝したり、美しさを誇示してはならぬという教えだ。
 発刊予定の3月になったが、現地の報道にも『PLAYBOY』社のHPにも、計画の成り行きについての記述が見当たらない。政府は、デモの要求に応え、新たに「ポルノ規制法」の制定を急いでいるが、ここにも、市場拡大に走る商業メディアの「無神経さ」が見えるのは残念だ。(;)

文明の衝突(21)2006年03月07日 08:13

 西側の社会は、「自由」と「資本」への果てしない欲求に駆られ、世界をまるで単一同質の市場のように見立てて経済活動を進めてきた。情報流通の面でも、世界規模の「産業化」が進られているから、ムハンマドの風刺画がもたらした流血や、ポルノ雑誌をめぐる社会的緊張のような「文明の衝突」に、メディアが一役買うのも当然と考える人々がいる。
 だが、それは根本から間違っている。20~21世紀の、科学技術の発展がもたらした「生活圏としての地球の縮小」と「歴史の加速」の中で、メディアに託された役割は、「文明の衝突」の回避のために、相互理解と寛容による「文明の共存」に奉仕すること以外にない。そのためには、まず、メディア産業自身が「自由と資本への果てしない欲求」から脱却、あるいは、せめて自制することが求められている。
 具体的に必要なのは、メディア事業に携わるすべての人間の自制である。これは、メディアに限ったことではない。文藝や映画、演劇や歌謡に至るまで、全ての文化活動における異文明・異教との関わり合いに際して留意すべき共通原則である。
 文明の衝突は、西側の文明とイスラーム文明の間にとどまらない。昨年秋には、「Hollywood Buddah」というアメリカの小映画が、仏像の頭のてっぺんにジーパンを履いたサングラスの男を跨らせた図柄の宣伝ポスターで問題を起こしている。
 仏教国タイの新聞が、「仏陀に対する冒涜だ」と非難の記事を掲載、仏教団体が、バンコクの米大使館に上映禁止を命ずるよう申し入れて両国の外交問題に発展、結局、ポスターは撤去され、映画の冒頭に謝罪文が加えられた。
 タイの仏教徒にとって、頭は最も神聖な体の部位とされ、尻に敷くなどもってのほか。最も卑しい部位とされる足が、仏像の目の前にぶら下がっている構図も怒りを誘った。
 異文化の民を、単なる購買者と見たり、異文明の地をただの市場と見なしてきた過去を反省すべき時がきている。(;)