自死の周辺(3)2006年05月17日 08:15

 「自殺の防止」を法制に頼ることは、遺族の気持ちとして解らぬではない。だが、実際はたいへん難しいだろう。プライバシーや個人の信念が関わる問題に、どこまで法が立ち入れるのか。
 法でカバーするならば、「自殺」の多くの誘因になっている「心の病」の早期発見や治療体制の確立、そして「心の病」を引き起こす社会環境の改善といった予防措置を、公的に整備することだろう。
 それでも、芥川や太宰、藤村操の「自殺」の類は防げまいし、彼らも防いでなど欲しくはないはずだ。自殺者のほとんどは、意識しているかどうかは別として、自己中心なのである。
 それよりも、イギリスでの論議などを追っていると、高度文明社会における「自死」の問題点は、(仮に心神耗弱の状態にあったとしても、)自分の決意によって自ら命を絶つ「自殺」よりも、むしろ、明確な自分の意志に基づいて、しかし他人の助けを借りて「自死」する「安楽死=eutanasia」や「尊厳死=dignity in dying」に、今後ますます収斂して行くように感じられる。
 なぜか。──第1に、これからの社会では、個人の自由や尊厳が、一層、重んじられ保障されて行くと考えられるからである。必然的に、自分の意志によって自ら命を絶つ「自殺」も、個人の自由として、より寛大に認められる度合いが強まるだろう。
 第2に、医療や延命術の進歩によって、文明社会の高齢化はさらに進むだろうから、結果として、植物状態の寝たきりや、それに近い年寄りも増えていく。そうなると、「生きている意味がない」「他人の世話になりたくない」「みじめに生きているより死にたい」と願う者が増えるのは自然だ。
 だが、人はなかなか自分では死ねない。「自殺」に踏み切れる人間に、弱者はいない。「自殺」できる人物は、常人より遙かに強い意志と勇気を持つ強者なのだ。でも、大多数の人間は、意志も弱く、勇気もない。そこで、ますます多くの人間が、「安楽死」や「尊厳死」を求めるようになる。
 だから、「死ぬ自由」「死を助ける合法性」を、真剣に考えるべき時代が来ていると言える。(;)