自死の周辺(4)2006年05月18日 07:57

 英語でいう「dignity in dying」は、日本語で「尊厳死」と訳しているが、より正確には「死に方の尊厳=上品さ」であろう。要するに、「みじめでない死に方」だが、これが難しい。
 父は80歳の時、大腸の癌で亡くなった。終末期には病巣が腹壁を突き破って激痛が絶え間なく襲い、背中にできた瘻孔からは、壊死した組織が膿状に流れ出し、耐え難い悪臭を放った。
 医師は、苦痛を和らげる目的で、比較的早くからモルヒネの投与をためらわず、死の3日前の深夜、長男の私を廊下の隅に呼んで、「もう、楽にしてあげたらどうでしょう」と、言ってくれた。
 3ヵ月余の入院で、看護の家族も疲れ切っていた。朦朧とした意識のうちにも、苦痛を訴え続ける父を見るのが忍びなかった。「お任せします。よろしくお願いします」と、私は、モルヒネの増量を以心伝心に認めたのだった。結局、父は最期の2日余りを、苦しまずに、眠ったまま逝った。
 父の死から3年もしないうちに、母が認知不全症になった。わが家に引き取ったが、病状は悪くなるばかり。単身赴任で私が留守の家で、妻と息子たちの、片時も目が離せない看病が続いた。
 この病気の終末も、極めて悲惨である。懸命に看護する家族の顔も見分けられず、たまに帰宅する息子を、亡くなった夫と取り違えてすがって来る。満腹中枢が冒され、四六時中、空腹を訴える。活けてある花、仏壇の線香や蝋燭まで口にして、間断なく下の粗相をする。最期は、夜更けに、急に血圧と体温が下がり、救急車で運んだ先の病院で、明け方、静かにこときれた。82歳だった。
 父母ともに、人生に極めて積極的で、老境に至ってもよく学び、よく遊んだ。ともに読書を愛し、母は短歌を、父は謡曲から油絵にまで手を出す多趣味だった。昭和の初年から2人で山スキーやゴルフ、テニスを楽しんだスポーツ好きでもあった。
 もし、2人の最期の日々が、あれほど悲惨でなかったら、彼らの人生は万々歳だったろう。子も孫も、全く違った彼らの面影を心に留められただろう。私が、末期医療の問題を真剣に考え始めたのは、両親の悲惨な死を見てからだった。(;)