自死の周辺(5)2006年05月19日 07:47

 ほとんどの人と同じように、私の父母も、自分の終末に、尊厳が保てない死に方が待っていようとは思っていなかったようだ。特に父は、仏門の出であっただけに、「弥陀来迎図」に見るような穏やかな死、つまり「お迎え」が来るものと信じていた節がある。
 これには、次男坊で家を出て遠い任地にいることが多く、両親の本当の終末を見ていなかったせいもあるだろう。少女期に両親を失った母は、なおさらだった。だから2人とも、自分の死に方についての注文など、何一つしておらず、あるいは最期まで死を予期しなかったかも知れない。
 末期患者に対する延命治療についての論議は、最近でこそ公然と交わされるようになったが、10~15年前までは、どこかはばかられるテーマだった。医療は、医師の専門分野であり、高みから「診てやる」「治してやる」という姿勢でいられた。しかし、人権思想の滲透で、一般人も患者も、医療についての主張をためらわなくなった。医療訴訟も、激増している。
 末期患者の生理的苦痛や、みじめな死に対する精神的苦痛は、決して本人だけのものではない。長々と苦しませたくない、安らかに逝ってほしいと、その手立てに悩む家族にとっても、重い苦痛である。「楽にして……」という願いが、健常の家族に共有されている場合が、現実には多い。
 ならば、穏やかな終末期を得られるために、まず生理的苦痛を除く医療を、もっと奨励すべきだろう。そのために余命が削られても、痛みと苦しみにノタウツ状態は避けるべきだ。そして、3ヵ月とか、6ヵ月の余命と分かっている末期患者や、認知不全の進行などで人間の基本的な尊厳が保てなくなった患者には、持続的な睡眠を与え、延命治療を絶つことに、私は賛成である。
 医師の多くが、こうした死への関与には同意しないだろう。しかし、人々が「尊厳死」や「安楽死」への願望を募らせている現実は、誰も否定できまい。せめて、余命の短い末期患者が、「自分の意志」で死を選ぶための、医師による致死剤の処方は、法的に認める時代ではないか。(;)