新聞の無法(12)2006年06月06日 08:15

 私は、昭和34(1959)年に記者として新聞界に入って以来、平成6(1994)年に斯界を去るまで、ひたすら新聞のあるべき姿を求めて闘ってきたつもりだ。
 志すは、国民の信頼と期待に応えるに足る、「不偏不党」「正義人道」「反暴力・反腐敗」の新聞であった。そして今も、議会制民主社会における新聞の重大機能を信じ、下降一方の新聞の機能不全と堕落に警鐘を鳴らしている。
 その立場から、敢えて言わせてもらえば、新聞を駄目にした元凶は、新聞人の傲りと、怯懦にほかならない。傲りは独善とエゴを生む。怯懦は不正を生み、不正の粉飾が虚構を生む。
 今回、新聞業界が演じた特指見直し反対の狂乱の裏には、もし公権力を駆使した公取委の組織的実態調査が、新聞業界の販売や広告の現場に及んだら、虚構とエゴで固めた業界が壊滅的な打撃を受けることへの恐怖があったと、私は見る。
 反論があるなら、国会議員でも新聞協会の役員でも、はっきり言うがいい。──新聞業界は、販売店も本社も、虚偽の部数を掲げて不当に水増しした広告料金を得ていないか。
 販売店の大半が、不時の注文や定期購読者以外のスポット購読に対応するための「予備紙」のほかに、過去に新聞社から部数拡張を強要されて送られた「押し紙」などが起源の「積み紙」を抱え、「実売部数」を超えた「店部数」を、チラシ広告の広告主に公開している。
 そして、「店部数」に基づいて配布するチラシを受注し、配布料を水増しして受け取っている現実を、否定できるか。この実態は、内部告発としてウェブの世界にも数多く報告されているが、新聞側の否定・反論には、お目にかかったことがない。
 新聞本社はどうか。──部数は、掲載する広告募集のために"多々益々弁ず"だ。新聞社の「発行部数」は、末端の販売店から申告される「店部数」を積算したものである。広告部門は、この「水増し部数」を広告主に示し、水増しされた広告料を得ている。
 はっきり言う。これは刑事罰の対象だ。「実部数」を超えた分は、新聞もチラシも虚しく古紙と化す。こんなことで、何が正義の味方・国民の味方か。(;)