新聞の無法(13)2006年06月07日 08:12

 新聞業界は、自らを特別なものと思い込みすぎていないか。もちろん、民主社会における新聞の役割は重大この上もない。その公的な役割ゆえの責任感と高い誇りを持つことは大事だ。国民の側も、新聞へのさまざまな特典、──例えば政府専用機に同乗して首相などの外国訪問に同行したり、法廷や競技場の最前列で取材することを、その公的な役割ゆえに了承している。
 しかし昨今の新聞は、こうした取材・報道上の既得の特典はもとより当然視して、さらに事業上・経営上の恩典を求めて恥じない。いわば特権にアグラをかこうとする。世の中が自由競争を推進し、特定業界への保護撤廃が進んで行く中で、新聞業の特別扱いもいくらか縮小へ向かってはいるが、それでも、税法、商法、証券取引法などの上での優遇は残っている。
 一方で新聞業は、「商売本位・利益本位」へ、営利事業としての性格をますます強め、本来の社会的機能を萎ませている。「報道」の面でも、記者らの大半は閉ざされた記者クラブに蟄居して、あたかも公権力や権勢の"広報請負人"のごとく、どの新聞も同じ日に同じ内容の記事を書いては掲げることが多く、"脚で書いた記事"など独自色は薄まる一方だ。
 他方、「論評」もまた読む者を唸らせ、批評の対象者を叩頭させる迫力を欠く。土台となる知識が浅薄で、歴史や思想史についての教養に乏しいからで、甚だしきは、国益も民族意識も顧みず、歴史的根拠のある固有の領土を不逞の隣国に「呉れてやれ」などと、妄言を弄して嘲笑を買う。
 それもこれも、占領政策推進のために新聞を抱き込んだGHQによる特別扱いの名残で、以来、公の保護を貪ってきたこの業界特有の弊だ。しかし、庇護される者は、庇護する者に刃向かえない。公権力を監視し、その暴走を阻止する使命を負う新聞が、政・官の庇護に頼って無法を敢えてするのでは、本来の使命を遂行でるわけもない。
 新聞は、世の指弾を受けるような特典を自らかなぐり捨て、公権力とのしがらみを断って、民主社会の真の守り手に立ち帰らないと、早晩、国民に愛想を尽かされるだろう。(;)