歴史の伝承(下)2006年06月14日 08:17

 「三笠」は、1926(大正15)年以来、横須賀市稲岡町の三笠公園岸壁に「記念艦」として固定されている。
 大正から昭和の初めにかけての国際的な軍縮の流れの中で、「三笠」も一時は廃艦と決まった。しかし、日本の近代史に歴々たる事績を残した日本海海戦の旗艦である。永久保存を望む国民の声は強く、往時を偲ぶ数々の資料を艦内に展示して、民族の「記念艦」となった。
 敗戦後、連合軍極東委員会のソ連委員が、帝国海軍解体の一環として「三笠」のスクラップ化を強く主張したが、英米の代表が消極的で、結局、主砲や艦橋の撤去で収まった。
 それでも、上甲板に占領軍のダンス・ホールや水族館が造られ、講和条約成立後まで無残な姿をさらす悲運を味わった末、講和成立後の1961(昭和36)年、ほぼ今日の姿に復原・公開された。
 今では、ナポレオンの連合艦隊をトラファルガー沖の海戦で撃破したネルソン提督率いる英国艦隊の旗艦「Victory」、米国の独立宣言後も新興国を脅かした英海軍を相手に果敢に戦った米海軍草創期の戦艦「Constitution」と並んで、後世に伝える「3大記念艦」の1つとされている。
 やがて30年になろうか。「保存会」の会員でもある私は、毎年正月に「三笠」を訪ねる。日本に新しい時代を拓いた明治の先達の偉業に感謝と弔意を捧げ、歴史の伝承に決意を新たにするのが目的だ。「三笠」は、黄海・日本海両海戦での戦死者のほか、1905年9月に佐世保校停泊中に起きた火薬庫大爆発の犠牲者など、約400柱の鎮魂の墓所でもある。
 昨2005年5月27日の日本海海戦100周年を記念して、「三笠」の大改修が行われたが、この際、一時的ということではあれ、艦内各所の被弾個所の表示と、そこで戦死した将兵の名を記した銘板が一部撤去されてしまった。保存会の一部に、戦争の悲惨さを生々しく伝えることに消極論があるためともいう。
 それが本当なら「記念艦」の意義が泣く。「三笠」を訪れる現代の子らに、祖国の危機に戦って一命を捧げた祖先の名を示し、戦争の悲惨さをも率直に伝承するために、被弾個所の表示と戦死者の銘板は、ぜひ復活するべきだ。(;)