商売と良心(2)2006年06月16日 08:20

 見栄えのいい品や上物を表に見せ、鮮度の落ちた野菜や肉を下に敷いてパッケージしたり、上げ底をしたり、──こうした売り方には、いずれ業界専門の呼び方まである至って単純な商売テクニックなのだろうが、知りたいのは、そうしたカラクリを仕組む時の商売人の心情だ。
 消費者は、マンマとだまされて買うだろう。買って帰ってから苦情を言って来る客は少ないだろうし、平謝りに謝ってしまえば何とかなる。それより売上げ目標だ。買わせてしまえば売上げが立つ。それでよし。──というのであれば、随分と客をなめた話である。きっと、詐欺容疑で立件されたり、賠償請求の民事訴訟を起こされる気遣いはない「小悪」にすぎない、という意識が働いているのだろう。実はそこが、私には大きな問題に思える。
 今の日本では、法令に触れなければ、あるいは法網をすり抜けることができれば、大方の「小悪」は、「ま、いいじゃないか。皆もやっている」という、「甘え」がはびこっている。実は、こうした状況は非常に危険だ。人々は「小悪」に慣れっこになって、気付かぬうちに「大悪」に踏み込み、ついには法を犯すに至る。だから、「小悪」の蔓延は「大悪」が簇生する前段と思うべきだろう。治安の悪い国は、「小悪」からして野放しだ。
 商売の上での「小悪」で、最も身近なのが利益を目的とする「欺瞞」だろう。孔子が「利によりて行えば怨み多し=放於利而行多怨」と言っているように、利益を目的にする行いの被害者は、実体的な被害のほかにも、簡単に笑っては済ませられない「心の傷=怨」を負うものである。
 「怨」は、当然「不信」につながり、商行為という人間関係で最も頼りにすべき「信用」を破壊してしまう。あるいは、「やられたらやり返せ」とばかり、第三者に「怨」と「不信」の輪を広げ、世の中をどんどん住みにくくして行く。そして、「大悪」の藪が育つ土壌を作る。目の前の利益のために気安く「小悪」をする者は、その行為が行く末、それほど大袈裟なものに広がるとは思ってもいないだろう。現代の不幸は、人々が自己と自己が属する小組織中心に偏って、そのような負の連鎖に気付かないところだ。(;)