商売と良心(5)2006年06月21日 08:01

 これまで、大規模流通の商売の「小悪」について論じてきたが、企業の悪事は流通業界ばかりの産物ではない。ビジネス界の不祥事は、毎日のようにメディアを賑わしている。
 もちろん、新聞やテレビで報じられるような不祥事は「小悪」などという可愛いらしいものではなく、ほとんどが歴とした犯罪だ。が、「小悪」であろうと「大悪」であろうと、結局、組織の悪事の引き金を引くのは、地位の上下を問わず、個人の「良心の放棄」であることに変わりはない。
 個人としての「良心の放棄」が、何に誘引されて起きるかについてはすでに考察した。つまり、組織の中の個人は、組織としての命令や指示に逆らえば、組織内での立場が危うくなったり、疎外されたりすることを恐れ、良心を捨てて指示・命令に従うのである。
 しかし、暗示であれ明示であれ、個人としての自己の良心が許さないような指示・命令を受けた時、その人物に「私はできない」と拒める「勇気」があったら、事態は変わってくる「可能性」がある。「可能性」と言うに留めるのは、「なら、いい。ほかにやらせる」と振った先の、まま同じ職場のライバルが引き受けてしまえば、それまでだからだ。だが、その経緯は、「見えざる目」が見ている。人は、宇宙という無限組織の中で生きているのだ。
 拒んだ人物は、良心に背く「恥」を知った人間であり、多くの場合、「見えざる目」を信じている。引き受けた人間は、組織にとって重宝かもしれぬが、人間としては「恥知らず」と言えるだろう。結局、このような「恥知らず」をする組織の中では、重宝な「恥知らず」が出世して行くだろう。だが、そのことが組織を腐敗させ、滅亡に向かわせる。
 このような人間模様は、勤め人の世界では日常に見られることだ。戦に敗れ、国中がモノ・カネ本位になって行く中で、日本人は誇るべき文化であった「恥」という精神の働きを忘れてしまった。かつて日本の集団には、モノ・カネを超えた「心」の価値を尊重する文化があり、良心を重んじた。そして、この価値体系を壊すことを「恥」とした。今日の悪の栄えは「恥」の喪失から始まっている。(;)