軍神の遺影(1)2006年06月30日 08:09

 ひと回り以上若いはずの旧知のジャーナリストから、「ぜひ観てくれ」と、映画『加藤隼戦闘隊』のDVDが、いささか押し付け気味に送られて来た。──「昔の日本人は、顔も姿もキリッとしていて素晴らしい。それに生きざまが、何とも清々しく、美しいじゃありませんか」と、熱っぽく言う。
 以来、約3週間、PCで"上演"を始めると、どういうわけか長電話が入ったり、不意の来客があったり、呼び出しがかかったりしてコマ切れになり、一昨晩、やっと通しで観た。昭和19(1944)年封切りの東宝映画である。監督は山本嘉次郎、主演は藤田進。
 この映画を、私が最初に観たのは、国民(小)学校の4年。父の転勤で、北海道室蘭から宇都宮に移ってからだ。
 映画の主人公・加藤建夫陸軍(航空)中佐が、ビルマ戦線で奮闘中の昭和17年5月27日、ベンガル湾上空での英軍機との空中戦で戦死、2階級特進して「軍神」少将に列せられたのが、たしか同年暮れ。朝日をはじめ各紙が、その武勲を特大に扱った紙面を覚えている。
 「軍神」の生家が旭川市の在にあったせいだろう、私たち北海道の学童には、飛行服姿の「軍神」の、葉書大の遺影が配られ、神棚や仏壇、勉強机に飾られた。教室でも、繰り返し「加藤建夫伝」を聞かされた。
 「軍神」の祖父は、京都から旭川に入植した「屯田兵」だったという。父親は日露戦争に応召、乃木軍の下、「奉天会戦」で戦死している。「軍神」は明治36(1903)年9月28日の生まれだから、父の戦死時はまだ満2歳に達していない。父亡き後は、旭川の叔父の家で育った。
 「屯田兵」は、禄を失った旧下級武士を救済する目的で、明治新政府が北海道の原野に小銃を持たせて入植させ、開拓と北辺の護りに就かせた制度だ。長く困窮の生活を強いられ、いわば近代日本建国の犠牲者であった。
 それでも、幼いころから「軍神」も武人を志し、陸士・陸大で学び、第一次大戦以降、急速に戦力を評価され、各国が育成・増強を競った飛行隊に加わる。「支那事変」では、陸軍飛行第2大隊の中隊長として、すでに武勲と統率力で勇名を馳せていた。(;)