軍神の遺影(3)2006年07月04日 08:07

 『加藤隼戦闘隊』こと陸軍飛行第64戦隊(戦時別称・高2194部隊)は、1941年4月に加藤建夫中佐が隊長に就任した後の8月から、当時の陸軍の最新鋭単座「一式戦闘機=一式戦」・愛称「隼」で編成された。
 「隼」は、1937年12月に陸軍が富士重工の前身・中島飛行機に設計・製造を発注、「キ-43」の試作名称で開発された。設計には、中島の至宝といわれた小山悌技師長の下に、戦後日本のロケット開発を先導した、後の東大教授・糸川英夫も技師として参加している。
 「キ-43」と、それまでの陸軍戦闘機との顕著な違いは、主脚を「折りたたみ式」にし、3枚ペラにした点で、これが、軽快な旋回性能や高速化に大きく貢献した。
 ただ、脚の飛躍的改良を除くと、「一式戦」の設計の大要は、同じ中島飛行機が設計・生産した日本陸軍初の低翼式単座「九七式戦闘機」をなぞったものであった。
 「九七式戦」は、日本とソ連が満蒙国境で激突した1939年の「ノモンハン事件」における空中戦で圧倒的な強さを見せ、ソ連空軍に"空の狙撃兵"と恐れられた高性能機で、約3,400機が生産されたと記録にある。
 「キ-43」は、昭和16年に「一式戦」として正式採用となり、中島飛行機と立川飛行機(旧石川島造船所の子会社)で、計約7,500機生産された。因みに、当時の日本では、年号に「皇紀」が併用されており、「九七」は皇紀2597(昭和12=西暦1937)年、「一式戦」の「一」は皇紀2601(昭和16=西暦1941)年を意味した。
 「一式戦・隼」の主な性能は、高度6,000mで最高時速536km、上昇力5,000mまで4分48秒、航続距離約1,600km、増槽で約3,000kmとされており、12.7mm機関砲2門に各270発の砲弾を装備した。ただ、米英の戦闘機では20mmの機関砲が一足先に主力になって行った。
 約11,000機も作られた海軍航空の名機「零戦」にも匹敵する優れた運動能力を誇ったが、米英機の性能も急速に向上し、「一式戦・隼」の火力と防弾性能の劣勢が、加藤隊長らの戦死にもつながった。(;)

コメント

_ とんこう ― 2006年07月04日 10:32

建国記念の日が紀元節ということを知らない子供もいるのでは?
ましてや、紀元は2600年といっても判らないと思います。

トラックバック