軍神の遺影(5)2006年07月07日 07:59

 飛行機が戦争に使われたのは、第一次世界大戦(1914~18年)が最初だ。野砲の射程が次第に伸び、弾着の確認のためにより高い場所が必要になって、19世紀末、すでに気球が採用されていた。次いで、急速に実用化が進んだ飛行機。その機動性が、まず偵察にもって来いだった。
 そのうちに、偵察機同士が遭遇する。どちらからともなく、腰のピストルで操縦士同士で撃ち合ったのが、空中戦の始まりだという。やがて、操縦席に持ち込んだ石や煉瓦を、上方から相手の機体や操縦士の頭を目がけて投げ落とす戦法も採られた。
 初期の飛行機は、翼も胴体も、油を塗って補強した「羽布=はふ」という亜麻の布で張ってあるのが普通だったし、骨組も軽い木材だったから、石や煉瓦で穴をあけられると、あっけなく空中分解することがあったという。
 航空機の外板や骨格が、羽布より格段に堅牢な、ジュラルミンの類の軽金属に変わって行ったのは1910年代末だ。このころになると、軍用機と民間輸送機は完全に分化し、軍用機、特に戦闘機には2つの大きな設計思想の違いが生まれる。空中戦で優位に立てる「運動性能」を優先させるか、「運動性能」とともに「防弾性能」を重視するかの2つの流れだ。
 1対1での挌闘が多かった当時の空中戦では、相手の後部上方に付けて銃砲撃を加えるのが勝ちパターンだった。このためには、戦闘機が上下左右縦横に身軽に、しかも高速で移動反転できる高度な「運動性能」を持つこと、そして機体を自在に操れる操縦士の練度がカギだった。
 しかし、高い「運動性能」を追って行くと、機体の自重を極限まで下げねばならず、重いが破壊力のある機関砲や、操縦席周りの装甲、特殊なゴム膜などを張る燃料タンクの防弾性は割愛される。それでは、貴重な熟練操縦士を犠牲にするので、長い目での戦力の維持には損だ。
 だが実は、「運動性能」「防弾性能」「火力」の3つを追及した米英の戦闘機に対し、日本の戦闘機は、高い「運動性能」で一撃必墜を狙う方向に走った。そこには「人間観」の違いもあった。(;)