軍神の遺影(10)2006年07月14日 08:03

 映画『加藤隼戦闘隊』に戻る。──製作に当たった東寶映画は、寶塚歌劇、東寶劇場、帝劇、日劇などと並び、当時の"レジャー産業"のトップを行く阪急グループ傘下の映画会社だった。
 監督は、山本嘉次郎。東京・銀座の生まれで慶応に学び、役者を志して老舗の煙草屋を営む父親から勘当され、手切れ金で映画会社を作った「モボ」の世代だ。脚本も自分で書き、残した作品も、エノケンこと榎本健一を多用した喜劇が多い。どちらかと言えば軟派の職人である。
 その山本が、1942(昭和17)年に、海軍省の注文で『ハワイ マレー沖海戦』を同じ東寶で作って大ヒットし、1年置いた44年に『加藤隼戦闘隊』の発表である。当時の日本人が、硬派も軟派も「私」を捨てて、戦争に協力していた様子が窺えよう。ジャーナリストも、文士も画伯も同じだった。
 配役の1人で、今も年寄りに歌われる隊歌「加藤隼戦闘隊」を歌った灰田勝彦は、ハワイ生まれだし、ハワイアンの歌手として戦前から、すでに売れっ子だった。戦争への協力を身過ぎ世過ぎと見るのも、阿世と誹るのも"見方"だが、戦後に世の中が変わってから批判しても、説得力はない。
 山本監督の、この2つの映画に驚異のの迫力を添えたのは、円谷英二の特撮技術だ。円谷は、この特技が祟って、戦後、公職追放されるが、やがて「ゴジラ」シリーズなどで復活する。
 かれこれ60年ぶりに観て、日本語の美しさに驚く。軍人の世界を描いただけに、当然と言えば当然だが、みな挙措動作がきびきびして、当時の日本人を思い出す。でぐでぐ太った猫背の男女などいなかったし、衣服だって、掛けるべきボタンはきちんと掛けていた。そんなところが、DVDを送ってくれた戦後派ジャーナリストを、いたく感激させたらしい。
 時代、時代を「現代」として写した映画には、学ぶものが多い。ただ、戦意高揚映画の類を観るには、心と知識の準備が要る。私は戦死者を崇敬している。国家・民族のため、大義のためとて、一命を擲つことは「神の業」だ。だから私は、酒場で軍歌を歌う気には決してなれない。=この項完。(;)