ラシッドの碑(中)2006年07月21日 08:00

 ナポレオンは、エジプト遠征に数学・化学・建築学などの学者約170人を、学術調査団として連れて行った。大革命を導いた啓蒙思想の流れだが、現地では顧みられなくなっていた古代の文化遺産を持ち帰り、文明の光を当てることが目的だった。当然、ラシッドで掘り当てた石碑も貴重な研究対象になった。すでに、西欧の物差しが世界の物差しになり始めていた。
 ところが、ナポレオン軍の上陸を見送って、アブキール湾で待機していたフランス艦隊を、すでに隻眼隻腕だった猛将ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson 1758~1805)提督率いる英艦隊が襲う。1798年8月1日のことで、ナポレオン艦隊は全滅に近い打撃を受け、遠征軍は退路を断たれた。
 それでも、すでにカイロを陥れていたナポレオン軍は、今のシリア辺まで侵攻、翌99年7月25日には、アブキール湾に逆上陸したオスマントルコ軍を大激戦の末、かろうじて打ち払う。しかし、欧州に反仏大同盟ができて、ナポレオンは急遽本国へ帰ってしまう。
 アブキールの城砦に残った僅か1,600のフランス軍は、1801年3月8日、2万のイギリス軍に囲まれて壊滅、「ラシッドの碑」も奪われてしまった。つまり、石碑が大英博物館にあるのは、こういう経緯による。
 だが、「ラシッドの碑」は再びフランスと関わる。英国人が試みて成功しなかった碑文の古代エジプト文字の解読を、1922年、仏グルノーブル大学の若き教授、ジャン・フランソワ・シャンポリオン(Jean François Champollion=1790~1832)がやってのけたのだ。
 古代言語を学んでいたシャンポリオンは、碑文のヒエログリフを、古代エジプトの記念塔オベリスクにも刻まれている同種の象形文字と比べ、特異な表意/表音文字であることを突きとめ、古代ギリシャ文字部分と同文である事実を確認した。
 こうして、碑文がアレキサンダー大王の死後、エジプトを統治していたギリシャ系のプトレマイオス5世が、紀元前196年に公告した法令や納税規則を、3種の文字で表したものであることが解明された。「古代エジプト学」の幕開けであった。(;)