なぜスイスで(下)2006年07月31日 08:05

 映画『独裁者』のチャプリンの演説は、ファシズムに対する民主主義の防衛、つまり自由と平等の礼讃を訴えたことで、おそらく今後も永く語り伝えられるでしょう。しかし、ナチスに虐げられるユダヤ人を特に強調したため、チャプリン自身もユダヤ人ではないかという偏見に曝されることになりました。
 チャプリンは、人種差別を話題にすること自体を強く拒み続けましたが、2人の異父兄の1人、俳優のシドニー・チャプリン(Sydney)には、ユダヤ人の血が4分の3入っていたというのが定説です。ハリウッドにはユダヤ人が多かった。いずれにせよ、ナチが執拗にチャプリン・ユダヤ説を流し、1940年代には米連邦捜査局(FBI=Federal Bureau of Investigation)も、これを"踏襲"しました。
 チャプリンはまた、1930年代からソ連に同情的で、戦後の世界は共産主義が席巻すると考えていたようです。しかし大戦後の世界は、資本主義と共産主義との冷戦・対決へと展開しました。
 東欧や中国などの赤化におびえたアメリカでは、共産主義との対決機運が高まり、1940年代半ばからほぼ10年間、下院の非米活動委員会(HUAC=House Un-American Activities Committee)や、マッカーシー議員(Joseph Raymond McCarthy)が率いた上院の政府活動委員会(Government Operations Committee)小委員会で、公務員や学者、文学者や芸術家、映画人などを対象にした、大規模な「赤狩り」が行われたのです。
 HUACは、チャプリンを呼んで訊問することこそしませんでしたが、共産主義者として睨まれた彼は活動が不自由になり、1952年、英国に一時帰国します。
 FBIは、これを好機と捉えてチャプリンの米国への再入国を妨げました。このため、彼はヨーロッパに留まる決心をし、住まいをスイスの西端にあるレマン湖(Lac Léman)の畔、ヴヴェイ(Vevey)に定めたのです。
 彼は、1972年に「アカデミー名誉賞」を受けるため一時帰国しましたが、晩年の作品を主にロンドンで作り、1977年のクリスマスに、ヴヴェイの自宅で脳卒中に倒れ、88歳で他界しました。(;)