新聞の史観(4)2006年08月30日 08:03

 第2次世界大戦の終結から1991年のソ連の崩潰まで、約45年間の世界は、◇複数政党による議会制民主主義と自由経済を選んだ「西側」と、◇階級闘争史観に立脚した一党独裁と統制経済を掲げた「東側」の対立に推移した。対立は軍事面に収斂され、「冷戦」が世界に広がった。
 日本でも、敗戦から1960年代の終わりごろまでは、この国を「東側」タイプの統制国家にしようとする勢力と、「西側」に留まって自由を基盤とする経済繁栄によって、体制の優位性を示そうとする勢力が、激しく対立し続けた。
 対立は、政治の舞台ばかりでなく、地域社会でも職場でも学園でも激しかった。暴力を厭わず、「東側」タイプの社会を目指した極左政党の党員や労組指導者は、いたる所で中間的な人々を「革命」へと扇動した。こうした動きに大きな貢献をしたのが、日本社会党、総評、その傘下の日教組、そして社内を左派勢力が席捲するにまかせ、営業政策の見地から大衆迎合の左傾路線に走った大新聞であった。
 これらの左翼勢力は、いわゆる唯物弁証法に基づく階級闘争史観によって、人類の歴史が展開すると信じたから、帝国主義や植民地主義は、絶対的に否定されるべきものと考えた。従って、彼らが日本の帝国主義の過去を全否定するのは、至極、当然のことだった。
 実は、日本帝国主義を滅ぼしたのは、共産主義でも人民民主主義でもなく、競争相手の帝国主義だった。また、帝国主義を否定したソ連や新生中国もまた、近隣国などに対してしばしば帝国主義国家として振る舞った。ただ、彼ら自身や同調者は、そうした見方を断乎否定した。
 今、大新聞の中枢を占める世代は、このような左翼の歴史観の下に「聖職者」扱いを拒み、自ら「労働者」を名乗った日教組の教師らに、国の過去を全否定する"自虐史観"を扶植され、憲法9条を金科玉条として育ち、長じては学園紛争によってまともな勉学を妨げられた偏頗な人々である。(;)