新聞の衰微(2)2006年08月08日 08:06

 世の中は変わる。変わる世を、日々忠実に描き撮るのが、新聞の第一の役割である。だから、記者たる者は、まず世の変わりゆくさまを正しく描き撮ることに専念すべきだ。つまり新聞は、「史実の記録者=クロニクラー=chronicler」であり「事実の報告者=リポーター=reporter」であることが基本である。
 もちろん新聞人も、一個の人間として高邁な理想を抱き続け、仕事の中でも理想への接近を試みることは、人間の生き方として自然だ。しかし、現実を理想の姿に変えようという意識を先に立て、読者を変革へ導こうと記者活動をするのなら、新聞社を辞して政党に加わり、機関紙の仕事に携わるべきだ。新聞は、革命の道具ではない。革命の道具にしてもならない。
 読者は多様である。公正さを心がける新聞の読者ほど、思想的には右もいれば、左もいる。自由奔放な人生観を持つ読者もおれば、規律と謹厳を重んずる読者もいる。そういう多様な受け手に対して、特定の理念に基づいた特異なものの見方・考え方で書かれた記事を押し付ければ、ある読者は喝采しても、極端に嫌悪する読者も現れる。
 近代の新聞は、クロニクラー/リポーターとしての原始的な役割に加え、まず草創期の西欧議会制民主制度において、激しく利害対立する聖職者・貴族・市民の外にあって、公正の言論を展開する「第四の階級=the fourth estate」として認知された。
 次いで、議会制民主制度の成長に連れて、「権能の分立」を厳しく求められる立法・行政・司法の「三権」それぞれの暴走を監視し、防止する「第四の権能=the fourth power」として、民主社会に不可欠の役割を負わされてきた。
 新聞に対する公正不偏の要求には、このような歴史の背景がある。だから、良質な新聞は革命の闘士を記者として為すに任せたり、革命の道具に使われたりすることを許してはならない。
 もし、そのようなことで自己管理に誤ると、その新聞の社会的機能と、読者の信頼は失われ、業としても衰微の道をたどり始める。一部の大新聞の衰退は、こうした社会的役割の失念に大きく起因する。(;)

新聞の衰微(3)2006年08月09日 08:03

 まず「クロニクラー」「リポーター」であるべき新聞が、一定の思想・信条の持ち主によって主導権を奪われた結果、公正な報道・論評を保てなくなって読者が離反し、衰退して行った例が史上いくつか見られる。これは、新聞に求められる「第四の権能」を行使する中で、新聞が政治や政論と無縁ではいられない環境の中で、分を越えて脱線した例だ。
 欧米の新聞の多くは、政治・政論についてかなり旗幟を鮮明にし、法案や選挙などで世論が対立する場合に、はっきりと新聞社としての独自の姿勢を明らかにするものが多い。しかし、その代償として、こうした傾向の強い「硬派の新聞」は、発行部数もせいぜい100万部どまりで、限られた読者によって支持されているに過ぎない。
 これは、西欧社会の根底に、知識・教養・信仰・信条・人種などの面での画然とした区分があることと無縁ではない。だが日本のように、国民の識字率や教育水準が高く、前記のような区分が、個人でも集団でも不分明な社会では、むしろ読者が自分で各自の意見・主張を形成するために有用な「ナマの客観情報」を豊富に提供する方が、読者のためにも、新聞のためにも良いと考えられてきた。
 読者が、新聞の「偏り」を嫌い、新聞が「不偏不党」や「公正中立」を掲げ、「客観報道」に拘るのは、西欧社会に比べ、さまざまな面で均質な社会特性を持ち、流血の階級革命によらずして民主制度を手にした日本の風土に合っているとも言えるだろう。
 こうしたことから、新聞が伝える情報に関しては、5W1Hのうち、What・ When・ Where・Who・Howには極限の真実性を要求し、Whyにも主観を極力排することを伝統としてきた。
 戦後の物不足の中、2ページで復活した日本の新聞は、広告に先導された情報需要拡大の波に乗って膨れ、今や40ページもの分厚さにまでなった。だが、新聞の原点である「クロニクル」の情報、例えば「週間報告」とか「○月の出来事」を縮めてしまったのは、基本軽視であり、衰微の一因だ。(;)

新聞の衰微(4)2006年08月10日 08:03

 小庵は、横浜の西の外れにある。直線で2キロ足らずのところに消防署があって、出動時のサイレンが、いやでも聞こえる。ちょっとした規模の火事になると、どこから飛んで来るのか、機体を赤く塗った消防のヘリコプターが、現場上空でホヴァリングしているのが見えたりする。
 「あの辺には、古い知人の○○さんが住んでいたはずだが、……」などと、ほんの上辺で気遣いながら、それでも、「貰い火でもしていれば見舞いの金一封も包まねばならぬか」などと思ったりする。だが、よほど大きな火事で、死傷者でも出ない限り、翌日の朝刊にはマメ記事も載らない。新聞が、人と人を結ばなくなった。
 火事だけではない。並みの交通事故なら、死人が出ても載らない。住んでいる住宅地で空き巣の被害が頻発していることを知るのは、所轄署の要請を受けて文字にした自治会の「お知らせ」で、新聞の地方版は頼りにならない。
 もう12~3年になろうか。近所の住宅で、専業主婦が殺された。大雨の朝、子供を幼稚園に送り出して独りでいるところを、刃物による凶行だった。さすがに社会面の記事にはなったが、地方版に数回、続報が出ただけで、いつしか事件も迷宮入りになった。
 半世紀近くの昔、地方記者や社会部記者として、何度もこのような事件を取材した経験から言って、当今の「コロシ」を追う秀才顔の記者たちの取材姿勢が、何とも淡泊に感じられた。
 かつて、警察より先に容疑者をと、現場付近の聞き込みに通いつめて靴底を減らし、ついでに「街ダネ」を拾って記事にした地方記者は、今や顔が見えない。
 国際情報や政治・経済記事の重要さを否定するわけではない。しかし今の大新聞の、紙面の大半を占めるこの種の記事の多くが、官庁や大企業、諸団体の資料に頼った「頭で書いた記事」であって、新聞記事の基本である「脚で書いた」事実ではない。そして地方版さえ、読者が知りたい街の生きた情報に極めて乏しい。
 人件費や労働環境が、往時とは違うと新聞経営者は言う。だが国際記事も政治経済記事も、脚で書いた要素がなければ、読者にはよそよそしい。そこにも、新聞が読まれない要因がある。(;)

新聞の衰微(5)2006年08月11日 08:00

 近ごろの、全国紙の地方版を見ていると、民主社会が新聞に求めている「第四の権能」、つまり立法・行政・司法の「三権」の暴走を監視・防止する機能が、地方の自治体に対して満足に働いているのか、大いに疑問を感じる。県政に関してはまだしも、市町村の議会や施政について、住民が知りたいこと、知るべきことが、全国紙の地方版では、ほとんど伝えられていない。
 例えば、中央官庁や都道府県レベルの「談合」や「裏金」に関しては、各紙とも盛大に報ずるが、市町村レベルの公共事業にまつわる談合や不正などは、無いとも有るとも、さっぱり報じられない。実は市町村レベルにも、大小の利権ボスが蟠踞していたり、狭い世界だけに内部告発もままならず、「巨悪」が安眠しているケースが多いのだ。
 だが、県庁所在地の支局(一部の新聞では「総局」と呼んでいる)はまだしも、各地の市役所や町役場などをカバーする通信局・支局や駐在局レベルになると、要員の配置上も、突き刺さった調査報道を展開できる体制にはなっていない。
 現に市町村民として、自分が一票を入れた市町村議員が、議会でどんな活動をしているのか、全国紙の地方版で知る機会がどれほどあるだろう。全国紙は、今や地方自治に対して「第四の権能」を果たしているとは言えない。戦後の一時期、新聞が試みた自治意識向上への貢献は、放棄されて久しい。「生活情報」とやらの偏重で、重みのある地元の情報が減ったことが、新聞を読まない読者を増やしたとも言えないか。
 来年あたりから定年を迎える団塊の世代の多くが、「老後」を故郷の市町村で送ることになるだろう。彼らの主な関心が、これまでの「都会」から、住まう「地元」に移って行くことは確実だ。しかも,公的な取材機能がないインターネットは、この関心に応えにくい。
 ならば、身辺の情報、地方自治を巡る情報の需要は膨れるだろう。大新聞は、今こそ地方版の再建を図る時ではないか。記者が足りないなら、広告局に広告集めの紙面を作らせるような要員構成を洗い直すのも一案だ。途方に暮れたら、原点に戻って出直してみる手もあるだろう。(;)

新聞の衰微(6)2006年08月14日 08:06

 もうかれこれ15年を越すが、バブルの崩潰は、大新聞に決定的な打撃を与えた。その痛手は、今もなお癒えてはいない。バブル期に大きな散財をした新聞社ほど、後に長く苦しんでいる。
 戦後の経済変動の中で、「鍋底景気」や「オイル・ショック」などの不況を乗り越えてきた新聞ではあった。人々が不安な、不況期には強かった。しかしこの間、各社が販売部数を指標とした市場占有率の拡大競争をやみくもに進めた結果、昨今のビール業界のように、売上げ高は増えるものの、販売経費ばかりが嵩んで利益率は急激に落ち込んでいった。
 こうなると、頼りにされるのが、新聞社の収益のもう一つの柱、広告収入である。実は、部数の拡大は、結果として広告料金の引き上げに根拠を与える。一般に、広告に依存するタイプの業界ほど、より多くの購読者を持つ新聞を、広告メディアとして高く評価する。
 だから経営者は、販売部門の稼ぎに頼れなくなっても、部数さえ減らさなければ、広告部門が売上げを伸ばして、全体の収支を保てると考えた。そして、部数増が頭打ちになってからは、広告料金を「小幅しばしば」に引き上げて収入を支えた。すでに危険な道に踏み込んでいたのだ。
 このようなやり方は、所詮その場しのぎを恒常化した「弥縫策」であった。消費経済が拡大基調にある好況期には、広告需要も堅調で、広告主企業も料金値上げに応ずる余裕があったが、バブルの崩潰が、この構図を木っ端みじんに砕いた。
 驚愕的な広告収入の落ち込みで、すでに膨れに膨れていた人員・組織・給与・経費・投資などに大ナタを振るわざるを得なかった。紙面の衰微も、その結果だ。残るは、部数競争の"残留孤児"である水増し部数だが、この清算こそは死活の問題であり、新聞の衰退を決定づけかねない。
 入社から定年まで同じ部門しか知らず、部門の命題にのみ忠実な社員ばかりを育て、経営のジェネラリストの育成を怠った大新聞の弱点に、バブルの崩潰が悔恨の痛打を見舞った。(;)