新聞の史観(6)2006年09月01日 08:03

 独自の"戦犯法廷"を設けた読売新聞をはじめ、大新聞が「満州事変」を「先の大戦」の起点とするからには、事変前夜の中国やアジアの状況についての冷徹な分析は欠かせない作業だ。ところが、大新聞による歴史論では、このような分析はいつも省略される。
 特に帝国主義列強が、中国での権益をめぐって展開した専横の例としての、1917(大正6)年11月の「石井・ランシング協定」や、1921(大正9)年11月~22年2月の「ワシントン会議」、そして主要帝国主義国の力関係を、米英優位に固定することを狙った1930(昭和5)年1月~同4月の「ロンドン軍縮会議」などの分析は、日本だけを悪者に仕立てる新聞の史観にそぐわないのか、疎外される。
 これらの協定や会議は、特に米英両国の覇権維持を狙って日本の勢力伸長を抑え込む意図が見え見えだったから、「三国干渉」の際の屈辱感と同様に、日本国民の反米英感情を煽り、戦争への道につながった。従ってこれらは、"前夜"の分析には避けて通れない史実である。
 「石井・ランシング協定」は、時の臨時特命全権大使・石井菊次郎(1866~1945)と、米国務長官ランシング(Robert Lansing= 1864~1928)の間で調印された共同宣言。これに先立つ1915年1月、大隈重信内閣は袁世凱を総統とする中華民国に対し「対支21カ条要求」を突きつける。
 第1次大戦中のことで、中国大陸に権益を持っていた欧州列強が主戦場のヨーロッパで手一杯になった状況に、日本がつけ込んだ。そして、1)山東省の全ドイツ権益の日本への移譲。2)南満州鉄道などの日本権益の99年間延長。3)中国沿岸の一切の港湾や島の、第三国への不割譲・不貸与など、中国にとって屈辱この上ない要求を、条約として受諾させたのである。
 この非道も、当時の列強がアフリカや中近東で行った利己的な権益獲得の手法と大差はない。それを裏付けるように、1917年4月に対独戦に踏み切った米国は、「石井・ランシング協定」によって日本に中国市場を独占しないことを約束させ、見返りに満州での日本の権益を認めた。(;)

新聞の史観(7)2006年09月04日 08:03

 帝国主義時代の歴史を、史実に依拠して虚心に追ってみれば、世界の軍事・経済大国が、あるいは連合し、あるいは対立しつつ、弱小・後進勢力からの簒奪を繰り返してきた現実を知ることができる。
 この時代、簒奪の主要な舞台となったのは、アフリカ大陸、インド亞大陸、中南米、大洋州、そして中国大陸であった。そして、簒奪の対象は、資源・市場・軍事的要衝だった。
 中国は、1840~42年の英国との「アヘン戦争」に敗れたことを契機に、鎖国政策の撤回を迫られ、清朝の権威が大きく揺らいだ。英国はこの戦勝によって、1)香港の割譲=植民地化、2)広州、福州、廈門、寧波、上海の「江南五港」の開港、3)自由貿易制の導入=「公行」の廃止、などを勝ち取る。以降、欧米列強は競って中国大陸での権益を獲得して行く。
 彼らはキリスト教を戴く欧州発祥の白人国家として、しばしば連合を組んで侵略した。例えば、国権が絡んだ英清間の「アロー号事件」のいざこざと、自国の宣教師殺害をきっかけにこの騒ぎに便乗したフランスが、英側に与して清朝を打ち負かした「アロー戦争」。
 この結果、清朝と英仏露米との間に「1858年の天津条約」が結ばれ、キリスト教の布教・信仰の自由、開港場の増強、外国人の国内移動の自由などが保障された。
 武力をもって欧米の流儀に従わせるやり方は、1854年、日本に鎖国政策を捨てさせ、開国を強いたものと全く同じであり、白人国家が連合を組んでことに当たるのは、「馬関戦争」と同じだ。
 「アヘン戦争」以降の清朝の衰微は著しく、1884~85年の「清仏戦争」の結果、フランスにインドシナ(今日のヴェトナム)の宗主権を奪われ、19世紀の末までに、◇ロシアに旅順・大連を、◇ドイツにこ膠州湾を、◇英国に威海衛・九龍半島を、それぞれ租借地として提供、各国が軍隊を常駐させて自国の資本や鉄道の権益、そして広大な地域の治安までを握るに到ったのだ。皮肉にも、日本を開国に誘った米国は、西部開拓に忙殺され、中国市場への参入競争には出遅れた。(;)

新聞の史観(8)2006年09月05日 08:05

 帝国主義時代の列強は、弱肉強食の原理に徹して、奪われる側の立場にお構いなく、力にまかせて国際的な秩序を固めていった。
 第1次大戦後の国際秩序の再構築を協議した「ヴェルサイユ講和会議」は、主唱者ウィルソン米大統領(Woodrow Wilson 1856~1924)が示した、華麗な理想の「14カ条」を基本原則に運ばれることが期待された。これらの原則には、秘密外交の排除・海洋の自由・軍備の縮小・関税など経済障壁の撤廃・民族自決・国際平和機構の確立など、新しい秩序への意慾が盛られていた。
 会議で成立した「ヴェルサイユ条約」と付帯的な諸条約によって、フィンランド、ポーランド、バルト3国、ユーゴスラヴィア、アゼルバイジャン、イラクなど13の独立国が誕生したのは基本原則に沿った成果だ。しかし、これらの諸国が、なお英仏など強国の強い影響下に置かれたことも事実だった。
 その一方で、敗戦国ドイツは南西アフリカ、カメルーン、タンガニーカなどアフリカの領土をはじめ海外領土の全てを失ったほか、普仏戦争でフランスから割譲された係争地アルザス・ロレーヌをはじめ、各地で国境周辺の国土を削ぎ取られた。
 太平洋のドイツ領諸島は、赤道以南を豪州の、以北を日本の委任統治に移され、中国の山東省と青島の利権は、前述の「対支21カ条要求」を公認する形で日本へ移譲された。会議に参加した中華民国は、このため条約への署名を拒否、本国では反帝・排日の「5.4運動」が起きた。
  ドイツは5万6980平方kmの領土と、647万人の住民を失った。その上、徴兵制の廃止を約束させられ、自衛のための軍隊も、陸軍10万人、海軍1万5000人、1万トン以下の戦艦1隻を筆頭に海軍艦艇36隻・総トン数10万トンの制限を課された。英仏米などの連合国を手こずらせた潜水艦と航空機の保有は禁じられた。加えて、最終的に1320億金マルクという苛酷な賠償金を負わされ、経済は破綻した。
 世界は、まさに"食うか、食われるか"の生存競争に支配されていた。(;)

新聞の史観(9)2006年09月06日 07:23

 「ヴェルサイユ条約」に基づく第1次大戦後の世界新秩序を具体化する目的で、1921(大正9)年11月~22年2月に開かれた「ワシントン会議」は、海軍を中心とする列国の軍備拡張競争に歯止めをかける「軍縮会議」としての面が強く印象づけられている。
 しかし、それと同等、あるいはそれ以上の目的だったのが、日本の中国大陸への勢力拡張を抑止する措置の構築だった。会議の主導権を握った米国は、英仏・ポルトガル・日本に比べ、中国大陸への進出に大きく出遅れていたこともあって、「経済活動の機会均等」などの公正原則をうたいつつも、実は日本の進出に歯止めを掛け、米国の市場参入に道を開く意図を秘めていた。
 会議は、米英日仏伊の5カ国による「軍備制限条約」、以上の5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国を加えた9カ国による「中国問題に関する9カ国条約」など7つの条約を締結して終わったが、いずれの条約にも敗戦国ドイツと、革命政権樹立直後のソ連は加わっていない。
 「9カ国条約」は、米国が提案した、◇中国の主権・独立・領土・政権の保全、◇中国全土にわたる、各国の商工業上の機会均等などを掲げ、中国を主権侵害から庇護する原則を盛り込み、結果として、日本は山東省の権益放棄を声明する。だが、香港・マカオなどはそのままだった。
 米国は、日露戦争以後の日本の朝鮮半島・満州・中国への進出と、富国強兵策の推進に警戒感を募らせ、英国もまたロシア帝国の瓦解によって極東権益の競合相手が日本に置き変わったことを認識して、対日外交で米と協調するよう、方針を変えつつあった。
 このため、米英仏日4カ国の協議によって、太平洋の島々の領有権の現状維持を決めた「太平洋に関する4カ国条約」の成立を理由に「日英同盟」は廃棄された。
 このように、帝国主義下の国際社会におけるドイツ閉め出し、日本孤立化への、米英主導のお膳立ては着々と進んで行った。分けても、この会議での「軍備制限条約」は、日本人の多くに屈辱を感じさせる内容になった。(;)

新聞の史観(10)2006年09月07日 08:05

 「ワシントン会議」における、米英日仏伊5カ国による「軍備制限条約」のメイン・テーマは、これら5カ国の保有主力艦の総トン数を、国別の比率で制限しようとする点にあった。大戦後の世界的な景気後退の中で、各国とも建艦競争に投ずる巨費が国民経済を圧迫しており、軍備縮小への願いに大差はなかった。
 だが、「ワシントン会議」での落としどころは、戦艦・巡洋艦など主力艦の保有比率を、総トン数で米10・英10・日6・仏伊各3.3とする、大国本位の現状維持協定だった。日本は、米英各10・日7を主張したが押し切られた。この結果、新世界の新興国アメリカが、遂に海軍王国イギリスに肩を並べる地位を獲得したのだった。
 だがこれでは、米英が連合すれば日本に対して20対6と、圧倒的な優勢となる。当時、国民1人当たりの年間所得差は、米720円対日60円と12対1。また、1922(大正10)年度の日本の政府予算15億6,000万円のうち、海軍費は4億9,000万円で約31%という数字が残る。これに対し、米国の海軍費は総予算の14%であったという。
 従って、10対6の日米主力艦比は、国力相応ではあった。しかし、「砲艦外交」がまかり通っていた時代である。日本海海戦で、海軍力によってロシアの重圧をはねのけた国民の記憶が新しいだけに、時の高橋是清首相、海軍出身で「ワシントン会議」の全権を務め、高橋から政権を引き継いだ加藤友三郎らの、海軍や国民の説得は、当然、容易でなかった。
 米英は、なおも日本の膨張に警戒を強めて行った。1927年には、ジュネーブに米英日の3国が集って海軍の補助艦艇削減を協議したが不調。1930年に再度ロンドンに集まり、補助艦艇の保有比率を米英各10・日7とする「ロンドン条約」を結んだ。条約批准に当たった浜口雄幸内閣に対し、軍部は「統帥権の干犯」を振りかざし、右翼が呼応して「超国家主義」の蔓延を招いた。(;)