新聞の史観(7)2006年09月04日 08:03

 帝国主義時代の歴史を、史実に依拠して虚心に追ってみれば、世界の軍事・経済大国が、あるいは連合し、あるいは対立しつつ、弱小・後進勢力からの簒奪を繰り返してきた現実を知ることができる。
 この時代、簒奪の主要な舞台となったのは、アフリカ大陸、インド亞大陸、中南米、大洋州、そして中国大陸であった。そして、簒奪の対象は、資源・市場・軍事的要衝だった。
 中国は、1840~42年の英国との「アヘン戦争」に敗れたことを契機に、鎖国政策の撤回を迫られ、清朝の権威が大きく揺らいだ。英国はこの戦勝によって、1)香港の割譲=植民地化、2)広州、福州、廈門、寧波、上海の「江南五港」の開港、3)自由貿易制の導入=「公行」の廃止、などを勝ち取る。以降、欧米列強は競って中国大陸での権益を獲得して行く。
 彼らはキリスト教を戴く欧州発祥の白人国家として、しばしば連合を組んで侵略した。例えば、国権が絡んだ英清間の「アロー号事件」のいざこざと、自国の宣教師殺害をきっかけにこの騒ぎに便乗したフランスが、英側に与して清朝を打ち負かした「アロー戦争」。
 この結果、清朝と英仏露米との間に「1858年の天津条約」が結ばれ、キリスト教の布教・信仰の自由、開港場の増強、外国人の国内移動の自由などが保障された。
 武力をもって欧米の流儀に従わせるやり方は、1854年、日本に鎖国政策を捨てさせ、開国を強いたものと全く同じであり、白人国家が連合を組んでことに当たるのは、「馬関戦争」と同じだ。
 「アヘン戦争」以降の清朝の衰微は著しく、1884~85年の「清仏戦争」の結果、フランスにインドシナ(今日のヴェトナム)の宗主権を奪われ、19世紀の末までに、◇ロシアに旅順・大連を、◇ドイツにこ膠州湾を、◇英国に威海衛・九龍半島を、それぞれ租借地として提供、各国が軍隊を常駐させて自国の資本や鉄道の権益、そして広大な地域の治安までを握るに到ったのだ。皮肉にも、日本を開国に誘った米国は、西部開拓に忙殺され、中国市場への参入競争には出遅れた。(;)