新聞の史観(11)2006年09月08日 21:03

 第1次世界大戦(1914~18年)の後、満州事変(1931年)前夜の約12年間、日本は内外とも極めて多難な時代を経験した。遙か欧州を主戦場とした未曾有の大戦に、いわば漁夫の利を占めた日本は、好調な輸出に励まされて商工業の急速な近代化に成功、国際競争力をつけた。
 しかし、戦後に訪れた世界的な不況の波は、次第に振幅を広げた。追い討ちを掛けるように、1923(大正12)年9月1日、関東大震災が襲った。不況は、1929年10月、遂にアメリカから始まった「世界大恐慌」に到って崩落期に達し、日本も大打撃を被る。政府は、原敬内閣(1918年9月~21年11月)の初期から、取り付け騒ぎや大企業破綻の頻発に見舞われ、財界救済の姿勢を露わにして日銀や興銀の特融を連発、これがインフレを招いて庶民を苦しめ、農村を疲弊させた。
 殖産興業・富国強兵の国策に従った財界救済だったが、これが政・財癒着を一段と深めたことは否めない。政党政治は揺籃期でありながら、政治とカネ・政官と財界の関係は、今日と変わらぬ様相を記録している。帰するは汚職の頻発であり、政治腐敗は「超国家主義」を勢いづかせた。
 他方、大戦末期の1917年に、ロシアで共産主義政権が生まれたことは、急速な工業化で労働者の激増を招いた日本社会に、労働運動という新たな社会問題を感染させた。続発する労働争議に、内務省が労働者の団結権・罷業権を認め、組合加入を理由とする解雇を禁じた「労働組合法案」を発表した(1925=大正14年)が、資本家側の猛反対で骨を抜かれ、結局、潰された。
 政党政治と言っても、有権者は多額納税者に限られ、平等な選挙を求める「普選運動」は、大戦後の社会情勢の中で激化した。曲折の末、三菱財閥出身の加藤高明が率いた憲政会と政友会・革新倶楽部の「護憲3派内閣」は、1925年3月29日、「普通選挙法」を成立させる。25歳以上の男性に選挙権が認められ、有権者は330万人から1,250万人に増えた。その10日前、天皇中心の国体を固め、共産革命を封ずる「治安維持法」が、新聞も沈黙する中、スルリと成立した。(;)