新聞の史観(13)2006年09月12日 09:03

 読売新聞の"戦犯法廷"や、朝毎をはじめとする大新聞の論調に表れる日本帝国の"犯歴"のあげつらいは、世界各国の今昔に照らしても、非常に特異かつ希な言論活動である。
 少なくとも、自他ともに「大国」と認められた国家の主要メディアが、帝国主義時代の生存のための行いについて、"私設法廷"まで設けて先人を裁いた例を、私は知らない。
 それを敢えてするなら、各国とも材料は山ほどある。大英帝国がインドでフランスと覇権を争って勝ち、その植民地経営で何をしたか、中国で中東で何をしてきたか。英仏独、ベルギー、オランダなどがアフリカを引き裂いて植民地に分け合った時代に、それぞれの帝国が何をしたか。
 "自由の国"アメリカがハワイや中南米で何をしたか。帝政ロシアとソ連が、ポーランドやフィンランド、東欧で何をしたか。──だが、その時代に他民族への「加害者」となり、自国民に多大の犠牲を強いた指導者を、その国のメディアが、「今日の尺度」で裁いたことがあるだろうか。
 時代には、それぞれの「時代の尺度」がある。今、日本の大新聞を支配している世代は、そこが解っていない。歴史という、人間集団の生存の軌跡を、生かじりの唯物弁証法で機械的に論じようとするから「時代の特性」が解らない。過去を「今日の尺度」で計り、政治的に利用しているだけではないか。
 大新聞が「今日の尺度」を使って、日本帝国主義時代の検証を行い、日本人を悪者の後裔に位置づけるほどに、手を叩いて喜ぶのは、日本を二度と強国に復活させまいと、「今日の尺度」と「階級闘争史観」を戦後日本の教育界や言論界に押し付けた勢力に他ならないではないか。
 ならば、その種の勢力に訊ねるがいい。数千万人単位の犠牲者を出した「大躍進」「文化大革命」の、国家の主人たる人民の自由の要求を戦車で蹴散らした「天安門事件」の、チベットへの侵略と属国化、インドやヴェトナム・旧ソ連との戦争に記録される「中国の帝国主義時代」を、中国共産党とその御用報道機関が、誰を名指し、どのように裁いてきたのか、裁いているのかと。(;)