新聞の史観(14)2006年09月13日 07:56

 薄氷を踏む思いでロシアに勝った日露戦争だったが、親身になって講和の根回しをしてくれたと語り伝えられる、セオドア・ローズヴェルト第26代米大統領(Theodore Roosevelt1858~1919年)の日本への好意には、ハーヴァード大学で学友だった、明治憲法の起草者の1人、後の伯爵・金子堅太郎(1853~1942年)との個人的な親交が大きく作用していた。
 決して、アメリカ全体が日本に好意的だったわけではない。大統領も、国家としては、したたかな先読みをしていたのだ。
 アメリカにおける中国人・日本人を主な標的とする「黄色人種排斥運動」は、両国からの移民が急速に増えた19世紀後半から、すでに始まっている。1882年には、まず「中国人排除法=Chinese Exclusion Act」が連邦議会で成立する。黄色人種への観念的・感覚的な偏見・差別感情に加え、低賃金に甘んじて刻苦勉励する中国や日本からの移民に対する、白人労働者の実利上の反発の結果だった。
 中国人移民の排斥が先行したのは、清朝の衰退によって中国が主権国家としての当事者能力を侮られていたからである。だが排斥運動は、中国人以上に勤勉で向学心が強く、誇り高い日本人に対して、より苛酷だった。
 1901年には当時の対米日本移民26,000人の半数以上が住んでいたカリフォルニア州の議会が、日本人移民にも「中国人排除法」を適用するよう連邦議会に要求するほど高揚した。そして、黄色人の国日本が、白人の大国ロシアを破って、排斥は一段と激化した。
 日本人移民が全米で13万を超えた1913(大正2)年には、カリフォルニアで、帰化権のない黄色移民の土地所有を禁じ、賃借を制限する州法が成立する。さらに1924(大正13)年、米連邦議会は、第30代大統領クーリッジ(John Calvin Coolidge Jr. 1872~1933年)の反対を押し切って、帰化権のない移民の全面禁止を法制化した。立法推進派は排日を公言し、年間の日本人移民は150人ほどに抑えられた。
 黄色人種は、「Manifest Destiny=自明の定め」の適用外だった。(;)