新聞の史観(27)2006年10月02日 08:03

 英米日仏のシベリア出兵は、侵攻した各帝国の側にほとんど何の果実もなく終わった。それは、新生ソヴィエトを支持する、しないに関わらず、侵略者を撃退しようと命がけで闘ったロシア人の「愛国心」と「誇り」、「国家主権の主張」によるものであると言って過言ではあるまい。日本は、約3,000の人命と、当時のカネで、約10億円の戦費を費やしたが、結局、寸土も奪い取ることはできなかった。
 このように帝国主義の時代には、侵略者を断乎として排除する国民の固い意志と、これを具体化する一致結束の体制、とりわけ強靱な国防力を持つ国家だけが、存続を全うできたのである。言うまでもなく、侵略された国家・民族の悲惨さは筆舌に尽くしがたいものがあり、侵略者の暴虐は、しばしば野獣の貪婪にたとえられるほど、残酷なものであった。これは、大きな歴史の教えだ。
 ただそれは、全てを「帝国の存続と発展」にかけて行った、弱肉強食の原理むき出しの時代のことであって、その時代の出来ごとを、「国家間の信義」とか「人道」といった、帝国主義時代の後に広まった「今日の尺度」によって計ることには、そもそも無理があると言わざるをえない。
 早い話、日本が朝鮮半島の支配・領有を目指した動機は、第1に不凍港を求めて執拗に南下を試みるロシア帝国の勢力を、朝鮮半島、願わくば満州で食い止めるという国防上の必要であった。こうしたロシアの動向が顕在化してきた日清戦争当時、仮に、韓国が自力で国家主権を保全し得る政治・軍事の体制を持ち、自力で国家の命運を決することができていれば、日本はあれほど苛酷な半島の支配・領有には走らなかったかもしれない。
 残念ながら当時の韓国は、弱体化著しい清国になお隷属し、その清国がロシアを含む列強に対して極めて弱腰で、政治体制も威厳を失っていた。日本の朝鮮半島支配には、軍事的要因のほか、産業革命期の必然としての市場の拡大や、農業開発による食糧確保といった自己本位の欲望が働いていたことを否定できない。だが、こうした国家エゴとて、「今日の尺度」で計るのは甚だ困難だ。(;)

新聞の史観(28)2006年10月03日 08:07

 1909(明治42)年10月26日、韓国統監府初代統監で、当時は枢密院議長を務めていた伊藤博文は、満州視察の途中、ハルビン駅の車中でロシアのココフツェフ蔵相と日露中韓にわたる諸問題を非公式に話し合った。
 この直後、邦人の歓迎に応えようと駅頭に進んだところを、群衆に紛れていた安重根(アン・ジュングン)に拳銃で6発撃たれ、3発が命中、間もなく絶命した。享年68。
 安重根(当時30歳)は、韓国の貴族階級、両班(ヤンパン)の出身。韓国の日本への隷属に激しく反発し、「日韓協約」締結に関わった日本側の伊藤をはじめ、韓国側の重鎮らも一人残さず抹殺する誓いを立て、同志14人と左手の薬指を切り落として決行の機会を狙っていたとされる。
 安はその場でロシアの官憲が逮捕、日本側に引き渡され、翌1910年2月に旅順の関東都督府地方院で死刑判決、同3月26日、旅順監獄で処刑された。この年8月、韓国の日本への併合を決めた「日韓条約」が調印され、国号は「朝鮮」と改められ「朝鮮総督府」が置かれた。
 伊藤は、幕末長州の下級武士の生まれ。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上馨らと尊王攘夷運動に投じ、奇兵隊で活躍。暗殺・拉致・放火・騒擾・密航など波乱の青年期を経て、倒幕後は兵庫県知事、初代工部卿など要職を歴任。
 大久保利通の横死後は内務卿を引き継ぎ、1882(明治15)年には憲法制定の予備調査のため自ら訪欧、85年に内閣制度の創設に伴い、初代首相となる。さらに、初代枢密院議長として「大日本帝国憲法」の制定(89年)に関わった"明治の元勲"の一人だ。国会内に銅像もある。
 だが、保身に終始し、ひたすら安心立命を願う韓国皇帝高宗を面前で恫喝し、退位の強制や軍隊の解散を押し付けた海千山千の伊藤は、奇骨ある両班や韓国国民にとって、憎みても余りある仇敵だった。
 他方、日本人にとっての伊藤は祖国近代化の功労者であり、英雄だったから、政府はその死を国葬をもって悼む。「人権」とか「国家主権」といった概念が、国際的に定着していない時代のことだ。安の、民族独立を求める叫びが「3・1運動」などを経て実るのには、なお30年を要した。(;)

新聞の史観(29)2006年10月04日 07:50

 韓国の人々にとっては、触れるのもいまいましい屈辱の過去だろうが、実際、19世紀の韓国は、何とも不甲斐ない国家ではあった。
 日本は、アメリカをはじめとする列強の強要を受け、安政年間(1854~59年)に、17世紀初めから200余年続いた「鎖国」を解き、欧米文明への「開国」に踏み切った。この間、国の行方を巡って国論は二分、同胞が血を流し合う苦難も経験した。
 当時の韓国は、儒教文化の強い影響下にあったため、対外接触に伴って自然に入って来るカトリックなど異教の排除も念頭に、日本より徹底した鎖国政策をとり、「隠者の国」とさえ呼ばれていた。それが、日本の開国によって、東洋で鎖国を続ける唯一の国と化した。
 そんな中でも、日韓は特別な関係にあった。徳川時代の初めから、将軍家の継嗣や祝事の際に、「朝鮮通信使」という使節を12回も送って来ていた。このため明治新政府は、韓国側に時勢を説いて開国を促したが、反応は真剣味に欠け、これが「征韓論」の根拠の一つともなった。
 もっとも、「征韓論」の真の目的は、維新によって俸禄や特権を失った士族を慰撫するために、韓半島に彼らの活路を求めようとする考えであった。秀吉の「朝鮮出兵」=文禄(1592~3年)・慶長(1597~8年)の両戦役と同じ発想が、生きていたのである。
 結局、外征より内治優先を主張する大久保利通、岩倉具視、木戸孝允らが近代化路線の主導権を握り、「征韓論」を唱えた西郷隆盛や板垣退助は新政府を去る。新路線が定着する区切りとなったのは、西郷らの反乱を鎮圧した1877年の「西南戦争」で、以後、再び韓国に目が行く。
 固く閉ざした韓国の門戸をこじ開けたのは、皮肉にも日本だった。1875(明治8)年9月20日、京城(今日のソウル)の西、京畿湾に面した漢江河口の島「江華島」の砲台から、日本海軍の軍艦「雲揚」が砲撃を受けた。
 付近の海域を測量し、給水を求めて漢江の支流塩河に入った際とされるが、砲台からの弾丸は「雲揚」には届かず、逆に艦砲の応戦で砲台は撃破されてしまった。(;)

新聞の史観(30)2006年10月05日 08:05

 いずれは韓国を開国に導き、日本の利益に活用しようと考えていたのは、征韓論派だけではなかった。当時の韓国王朝は、高宗皇帝の父・大院君と、皇帝の妃・閔妃(ミンビ)の両派が、国政を巡って事ごとに対立、内紛が絶えなかった。日本政府は、この混乱につけこむ隙を狙っていた。
 どうやら「雲揚」の行動は予定されていたらしい。現に事件の年6月にも、「雲揚」は朝鮮半島東岸を北上して示威行動をしている。江華島の草芝鎮砲台を反撃破壊した「雲揚」は、近くの永宗鎮も砲撃、さらに陸戦隊を上陸させて、兵士や民間人を殺傷、武器弾薬等を略取した。
 先に発砲したのが韓国側だったのは争いのないところだが、「雲揚」の行動は明らかに過剰防衛である。しかし日本政府は、事件を好機と捉えた。翌1876年1月早々、全権大使に黒田清輝、副全権に井上馨を指名し、軍艦数隻を伴わして韓国に送り厳重に抗議、責任を問う。
 砲台の韓国軍は、国是の「攘夷」に忠実だっただけなのだろうが、大砲の射程距離に大差が出来てしまった時勢に、李王朝の韓国は逆らえなかった。結局、日本の圧力に屈し、76年2月、12カ条からなる「大日本国大朝鮮国修好条規=江華条約または丙子修好条規」を結ぶ。
 条規の要点は、1)韓国は清との「宗属関係」を断ち、独立国として日本との国交を開く。2)釜山・元山・仁川の3港を開く。3)京城に日本公使、各開港場に日本領事を駐在させる。4)在韓日本人の領事裁判権を認める。──というものだった。条規では、江華島事件の賠償は問わず、要するに日本が欧米列強に締結を強いられた「不平等条約」を、右にならえと押し付けたのだ。
 似た事件があった。幕末、朝廷の攘夷令を奉じた長州藩は、1863年6月、下関海峡を通る米仏蘭の艦船を砲撃する。すでに幕府は開国を約していた。翌年9月、英国を加えた4カ国連合艦隊は、攘夷派の急先鋒長州を沈黙させようと報復に来る。長州は全砲台を撃破され、上陸した陸戦隊に占領される(下関事件=馬関戦争)。この時も、長州の砲弾は敵艦隊に届かなかった。(;)

新聞の史観(31)2006年10月06日 08:07

 「江華島事件」も「下関事件」も、軍艦と大砲を使って「力こそが正義」を見せつけ、弱小国に無理難題を強要する帝国主義外交の典型だった。日本が、「江華条約」で韓国を開国に導くと、待ってましたとばかり、アメリカ、フランス、ロシアが、それぞれ韓国と通商条約を結ぶ。
 このころ、韓国との外交折衝を複雑にしたのは、先に挙げた大院君派と閔妃派の抗争に象徴される政治中枢の不統一と並んで、「清朝宗属=しんちょうそうぞく」の特殊関係であった。
 李王朝の韓国は、1392の建国以来、中国に従属し、1401年以降はその「冊封(さくほう)体制」に組み込まれたまま近世を迎えた。冊封体制とは、中国歴代の皇帝が、貢ぎ物を携えて使節を送って来る近隣の君主に、王位・官位などを与えて君臣関係を結ぶ伝統の制度である。弱い立場の「朝貢国」は、外交や交易に介入できる「宗主権」を中国に託し、自国の安泰を図った。
 19世紀の中国(清)と韓国(朝鮮)とは、400年を超すこのような「宗属関係」にあった。従って、韓国が自主的に外交を進めたり、鎖国を解いて公然と第三国相手に国交を開いたりすることは出来ず、いちいち「宗主国」である清朝にお伺いを立てねばならなかったのである。
 だが、このような関係は、宗主国の権威が衰えると、たちまち機能不全に陥る。19世紀の清帝国は、イギリスによるインド産アヘンの大量流入に始まり、福建・台湾の反乱(1832年)、アヘン戦争(40~42年)、太平天国の乱(51~64年)、アロー戦争=別名・第2次アヘン戦争(56~60年)、ロシアによるイリ地方の占拠(71~81年)、清仏戦争(84~85年)、日清戦争(94~95年)と、内憂外患に明け暮れて国力は疲弊、泰平の時代の宗属関係は保てなくなって行った。
 いい例が米韓通商交渉だ。日本と違い、外交折衝で開国を迫った米国は、韓国から「外交は宗主国の権限」と北京での交渉を求められ、北京では「いや、藩邦(朝貢国)の内治・外交には介入しない」と、無責任なタライ回しに手こずった。しかも韓国の窓口は、お雇いドイツ人だった。(;)