新聞の史観(28)2006年10月03日 08:07

 1909(明治42)年10月26日、韓国統監府初代統監で、当時は枢密院議長を務めていた伊藤博文は、満州視察の途中、ハルビン駅の車中でロシアのココフツェフ蔵相と日露中韓にわたる諸問題を非公式に話し合った。
 この直後、邦人の歓迎に応えようと駅頭に進んだところを、群衆に紛れていた安重根(アン・ジュングン)に拳銃で6発撃たれ、3発が命中、間もなく絶命した。享年68。
 安重根(当時30歳)は、韓国の貴族階級、両班(ヤンパン)の出身。韓国の日本への隷属に激しく反発し、「日韓協約」締結に関わった日本側の伊藤をはじめ、韓国側の重鎮らも一人残さず抹殺する誓いを立て、同志14人と左手の薬指を切り落として決行の機会を狙っていたとされる。
 安はその場でロシアの官憲が逮捕、日本側に引き渡され、翌1910年2月に旅順の関東都督府地方院で死刑判決、同3月26日、旅順監獄で処刑された。この年8月、韓国の日本への併合を決めた「日韓条約」が調印され、国号は「朝鮮」と改められ「朝鮮総督府」が置かれた。
 伊藤は、幕末長州の下級武士の生まれ。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上馨らと尊王攘夷運動に投じ、奇兵隊で活躍。暗殺・拉致・放火・騒擾・密航など波乱の青年期を経て、倒幕後は兵庫県知事、初代工部卿など要職を歴任。
 大久保利通の横死後は内務卿を引き継ぎ、1882(明治15)年には憲法制定の予備調査のため自ら訪欧、85年に内閣制度の創設に伴い、初代首相となる。さらに、初代枢密院議長として「大日本帝国憲法」の制定(89年)に関わった"明治の元勲"の一人だ。国会内に銅像もある。
 だが、保身に終始し、ひたすら安心立命を願う韓国皇帝高宗を面前で恫喝し、退位の強制や軍隊の解散を押し付けた海千山千の伊藤は、奇骨ある両班や韓国国民にとって、憎みても余りある仇敵だった。
 他方、日本人にとっての伊藤は祖国近代化の功労者であり、英雄だったから、政府はその死を国葬をもって悼む。「人権」とか「国家主権」といった概念が、国際的に定着していない時代のことだ。安の、民族独立を求める叫びが「3・1運動」などを経て実るのには、なお30年を要した。(;)