新聞の史観(42)2006年10月23日 08:05

 清国と日本の講和会談は、1895年3月19日、直隷属総督を兼ねていた北洋大臣・李鴻章を赤間関(馬関とも呼んだ今の下関)に迎えて開かれた。日本側全権として迎えたのは、首相の伊藤博文と、外相の陸奥宗光であった。
 日清戦争につながった「甲午農民戦争」への介入以来、日本の世論には、衰え果てて当事者能力を失った隣邦・韓国を「清国の隷属から義をもって救う」という「義戦論」が盛んだった。しかし、東洋を代表する強大国と世界が認めていた清国を、海に陸に連戦連勝で破って行く戦況の中で、国内の各界からさまざまな「勝利者の要求」が沸き上がって行った。
 曰く、「吉林・盛京(今の遼寧省/瀋陽)・黒龍江の東北3省と台湾の割譲を求めよ」=与党・自由党。「山東・江蘇・福建・広東の4省を領有すべし」=野党・改進党、といった政党単位の主張もあれば、戦略的見地から「対ロシアの要衝として遼東半島を占有せよ」=陸軍、「将来の南進に備えて、台湾と澎湖島の確保は不可欠」=海軍と、それぞれの立場もからんで、要求は膨らんで行った。
 交渉に臨んだ李鴻章は、かねてから伊藤と面識もあり、初めは臆する様子も見せず、「今次の日本との戦で、清は長い眠りから呼び覚まされた。日本が早々に近代化に踏み出し、成功したことは賞賛に値する。今後は、両国が兄弟のように手を携え、西欧列強に立ち向かわねばならない」などと、敗戦国の宰相ともとれぬ「大人の風格」を見せたという。
 このあたり、かつての中国の指導者には、日本人には見られぬ「懐の深さ」があったようだ。1972年9月、日中復交の調印で北京を訪れた田中角栄首相に、毛沢東主席は、こう言ったという。──「われわれは、日本皇軍が中国に侵入したことを感謝している。それが、中国共産党と中国人民を助け、大陸を3年で解放できた。皇軍の功績は大きい。賠償など不要である」。
 だが流石の李鴻章も、日本側に停戦条件を示されると、あまりの厳しさに顔色を変えた。(;)