新聞の史観(32)2006年10月09日 08:00

 「清朝宗属」の関係にありながら、宗主国の清は年を追って衰え、欧米列強のなすがままに侵されて行く。他方、朝貢国の韓国も、中枢の内紛と事大主義が災いして時流への対応ができず、右往左往するのみ。列強が、中韓を"草刈り場"と心得たのは、当時としては無理からぬことだった。
 この時期、日本が最も警戒した強国は、ロシアである。米英仏蘭などは、本国も遠くその帝国主義的野心も、「領土」より「市場」に傾いていた。だが、ロシアは中韓と地続きである。日本とも、海を隔てて一衣帯水の隣国だ。地政学的に見ても、開国間もない日本には最も警戒すべき帝国であった。
 ロシア帝国は、18世紀にはすでにカムチャツカ半島の領有化を終え、千島列島を島伝いに南下、ウルップ島に本格的な植民地を拓く。西隣の択捉(エトロフ)島を挟んだ国後島は、松前藩が1754年から、すでに支配下に置いていた。また、樺太(サハリン)に関しては、18世紀末に同藩が南端に漁場を設け、1807年には幕府が直轄地に指定している。
 いずれにせよ北方の領土では、18世紀から日露の対峙があり、日本への通商要求も欧米列強の中ではロシアが最も早かった(1778年、対松前藩。翌年同藩が拒否)。また、1798(寛政10)年に、幕府の役人・近藤重蔵らが、ロシア側が立てた標柱を引き抜いて、「大日本恵登呂府」の標柱を立てた択捉島は、その後、幕府の直轄地になっていた。
 その択捉島を、1807(文化4)年4月、ロシアの武装船が襲う。ナイホの番屋を略奪・放火、幕府の奉行所があったシャナを沖合から砲撃した。奉行所には何の備えもなく、立て篭もって震えるばかり。下役が、無念の自害をする。ロシアの脅威は、このころからのものだ。
 1860年、アロー戦争で英仏軍が北京を占領した。ロシアは、調停の名目で占領に加わり、一兵も失うことなく、「北京条約」によってウスリー河以東の中国領・沿海州を、「調停の労の代償として」手に入れる。この結果、豆満江を境にして、ロシアは韓国と国境を接することになった。(;)

新聞の史観(33)2006年10月10日 08:05

 大英帝国に対抗して、19世紀には世界を二分するほどの大帝国に膨れあがったロシアが、川一筋の国境を隔てて迫っているのに、韓国は目覚めない。
 ロシア人は、豆満江の河口から直線で僅か140キロしか離れていない沿海州の入江に、大がかりな軍港を築き、極東艦隊の基地とする。州都ともなるその名「ウラディ・ウォスト-ク=Uladivostok」は、ロシア語で「東方を征服せよ」という意味であり、前面に広がる湾は、ロシアの近代化を率いた啓蒙君主ピョートル1世(1672~1725、在位1682~1725年)に因んで「ピョートル大帝湾=Zaliv Petra Velikogo」と名付けられた。
 19世紀のロシアは、オスマン・トルコ、ペルシャ(今日のイラン)、アフガニスタンなどをめぐって英国と覇を競い、衝突を重ねた。極東では中国と韓国が、さながら2頭の飢えた巨獣の前に投げ出された生贄だった。日韓の「江華条約」に倣って韓国と国交を開いたロシアは、宮廷内の不統一につけ込んで、しばしば密約を交わし、勢力滲透と、清・韓引き離しの機を窺った。
 イギリスも、黙って見てはいない。1885(明治18)年4月、済州島の北東約70キロにある韓国領の小島「巨文島=コムド」に、いきなり軍艦を乗り付けて占領、「ポート・ハミルトン=Port Hamilton」と命名して砲台を築く。ロシアが、韓国王朝から元山港の使用権を獲得したらしいとの情報を掴んで、ロシア極東艦隊の東シナ海、および黄海への出口を扼する狙いがあった。
 慌てたのは、韓国より清国だった。ロシアも対抗して韓国領の占拠を図る気配を見せたため、清朝は英・露の調停に奔走、とりあえずロシアには韓国侵攻の意思はないことを宣言させ、それをテコに英国の巨文島からの撤収を求めた。交渉は難航したが、結局、占領から1年10ヵ月後の1887年2月、ユニオン・ジャックを掲げた英艦は巨文島を去る。
 韓国を発火点とする「日清戦争」と、日本帝国自立の象徴「不平等条約改定」は7年後だ。(;)

新聞の史観(34)2006年10月11日 07:56

 19世紀後半の韓国で、「東学党」と呼ばれる宗教団体が大きな力を持つ。1824年、慶州生まれの崔済愚が、還暦のころから唱道した「東学」を信じた南部農民らを中心とした集団である。土着の民俗信仰に、儒教・仏教・道教を採り入れ、さらに天主教の教えを加味して、「人即天」という理念をもって「地上の天国」を目指した。
 もともと、西欧から滲透したカトリックをはじめとする「西学」の流行に対抗する宗教運動だった。が、単純な呪文を唱えることで病を平癒し、幸福を招くなどという取っつきやすさが貧しい大衆に受け、まず慶尚道一帯に急速に広がり力を持った。封建体制は、大衆の組織化を最も恐れる。李王朝は、「東学」を邪教として激しく弾圧、1964年、崔済愚を捕らえて処刑する。
 これが大衆の強い反発を生んだ。弟子の崔時亨(1827~95)は、教祖の遺訓を「東経大全」などの教典に編纂して布教を続け、信徒は半島南部の農民、奴卑、没落両班らに広まって、さらに勢力を増した。
 1880年代に入って、政府の禁圧が一段と激しさを加えると、信徒らも対抗して反体制運動になって行く。掲げた主なスローガンが、「教祖の伸寃」「貪官汚吏追放」「斥倭洋倡義」である。
 「教祖の伸寃」とは、死刑になった教祖・崔済愚の冤罪を晴らし、教学の合法化を迫る要求だが、「貪官汚吏」とは、庶民から租税をむしり取る汚職まみれの役人のことである。そして「斥倭洋倡義」は、輸入品の増大による地場産業の圧迫などで、庶民の生活に影響を及ぼし始めた、日本や欧州列強の帝国主義植民地政策への排斥を指している。
 因みに、2005年1年間だけで8万7千件を数えたという現代中国の農民・労働者の暴動で、しばしば掲げられているのが、「毛沢東万歳」に並んで、同じ「貪官汚吏追放」だという。封建東洋の歴史は、回帰性を持つのか。
 1890年代、「東学党」と呼ばれるに至った大衆勢力は、韓国の歴史に特大のメルクマールを記す大騒動の口火を切る。「日清戦争」と「日韓併合」につながった「甲午農民戦争」である。(;)

新聞の史観(35)2006年10月12日 07:30

 「甲午農民戦争」は、かつて「東学党の乱」と呼ばれることが多かった。大規模な反政府蜂起の指揮を執った下級官吏出身とも言われる全琫準(チョン・ポンジュン=1855~95)をはじめ、運動の中核が「東学」の信者だったために、「東学党」の決起のようにとる見方もあるが、実態は農民や貧民による反封建・反植民地化の反乱であった。
 1892(明治25)年暮れ、数千人の東学信徒らが忠清北道報恩や、全羅北道の古阜や泰仁などで集会を開いて、「教祖・崔済愚の伸寃」などを誓う。翌93年3月には代表数十人が京城の宮廷前で3日3晩平伏して教学の合法化や、窮民救済を訴えて座り込んだ。信徒らは、それでも要求が聞き入れられないと分かると、運動の根拠地・報恩で2万人からの大決起集会を催す。
 "東学党"の運動は、このころから反権力、汚職官吏の糾弾、排外の色を濃くし、暴力化して行く。干支暦で「甲午年」に当たる1894年2月、穀倉地帯・全羅北道古阜郡の農民約1千人は、彼らを使役して農業用水路を造らせた上、出来上がった水路の利用料を徴収して私腹を肥やすなど、悪政を重ねた郡守の趙秉甲に反攻して決起する。先頭に立ったのは全琫準であった。
 農民たちは、「貪官汚吏追放」「斥倭洋」などの旗幟を掲げ、郡役所を襲って占拠、武器・弾薬を持ち出し、囚人を解放し、徴税台帳を焼いて施政権を奪う。趙秉甲は命からがら逃れたが、政府は責任を問うて解任。群衆は、新任の郡守の説得に応じて、同年4月、いったん施政権を返上する。ところが政府側は、騒ぎが収まると騒乱の主導者らの検挙と弾圧を再開した。
 5月初め、全琫準は再び決起、群衆を率いて古阜・泰仁の武器庫を襲って武装。近郷に檄を飛ばして一挙に首都・京城への進撃を呼び掛ける。全羅・忠清の両道をはじめ、各地に呼応する勢力が続出、慶尚・江原・平安・京畿の各道にも激しい農民蜂起が相次いで、騒乱は月余にして全国規模に広がった。500年続いた李王朝も、民衆の一斉蜂起に弱体をさらけ出した。(;)

新聞の史観(36)2006年10月13日 08:01

 「甲午農民戦争」の本拠地となった全羅北道の古阜・泰仁は、黄海に面した国立公園・辺山半島の付け根にある農村地帯。道都・全州には直線で50キロ足らず。首都・京城(現ソウル)にも、200キロほどである。今は、温泉やゴルフ場もあるリゾート地も近い。
 反乱の拡散に怯えた政府は、全羅道監営(全州の政庁)から数千人の兵を出動させ、京城からも約1千の軍勢を、全州の北北西50キロの群山に船で派遣、暴徒鎮圧に向かわせる。だが封建王朝の500年に、「京軍」は膂力も気力も萎えていた。即製の農民軍に連戦連敗を重ね、蜂起後わずか3月の5月31日には、ほとんどなす術なく道都・全州を農民に明け渡す。
 勢いづいた農民たちは、各方面から首都・京城へ破竹の勢いで進撃を始める。ここで、「清朝宗属の関係」が、また発動された。政府が、宗主国清に治安回復のための出兵を求めたのだ。清国の治安出動は、開国以来、これが3度目だった。
 前2度とは何か。──日本の強要による1876年の開国後、韓国政府の実権を握っていた高宗皇帝の妃・閔妃一族は、開明派として国軍の近代化を日本軍顧問団に頼り、洋式の装備や兵制に基づく「別技軍」を組織して育てていた。守旧派の高宗皇帝の父・大院君の一派はこれを嫌い、給与面で差別された京軍の将兵らをそそのかして、1882年7月、クー・デタを起こす。「壬午軍乱」である。
 反乱軍や暴徒は、日本公使館を焼き討ちし、公使館員や軍事顧問、閔妃一族の高官を殺害した。事前に不穏な動きを知った閔妃は、韓国に詰めていた清朝の政治家・袁世凱(1859~1916年。のち中華民国初代大統領)に庇護を求める。大院君は、いったん高宗皇帝から政権を譲り受けるが、閔妃は密書を夫・高宗に送って、清朝に軍事介入を求めさせる。
 清朝は、早速、5千の大軍を派遣して治安を回復するが、日本も出兵、韓国に賠償を請求する。韓国政府は、自国の政変の解決を宗主国の軍隊に頼るほど、当事者能力を失っていた。(;)