核を考える(3)2006年11月16日 08:01

 「核武装論議タブー論」には、「日本が核武装をする気配を見せることは、日米安保体制への不信表明と取られ、米国の不興を買って同盟関係にヒビが入る」という、有力な推論がある。ありうる事態の想定で、米国に民主党政権が誕生でもすれば、「自前でやれるなら、やってごらん」と、突き放されることも考えられないではない。──わが国の核の問題を考える時、ここが一番、切ないところだ。
 現実問題として、日本はアメリカの「核の傘」から一歩も出られない立場にある。核兵器、わけても核弾頭ミサイルが、敵対国家の攻撃に対抗する「抑止力」になることは、明らかである。もちろん、ひとたびこのような兵器を持てば、相手方も同レベルかそれ以上の破壊能力を持つ核弾頭ミサイルを持つ方向に走るのは、現実論が支配する国際関係では、止めようがない。
 とは言え、現実論に立った核兵器の「対抗保有」を放棄し「夢幻的平和主義」に頼ることは、外交上の立場を極端に弱くし、安全保障上の主体性を放棄する道でしかない。武力は外交の最後の手段であり、いかなる武力を保有しているかが「外交力」として評価されるのは、「砲艦外交」が切り札とされた時代は言うに及ばず、人類有史以来の「定理」である。
 だが、敗戦後の日本は、この歴史的定理に反する道を、押し付けられて歩んできた。「平和憲法」と「非核3原則」によって枷をはめられた外交力の弱さが、米国の「核の傘」に依存する安全保障体制を生み、今、現実の試練に直面させられている。
 その外交力の弱さは、1988年に締結された「日米原子力協定」によっても裏打ちされている。同協定8条は、米国から提供された核平和利用のための核燃料、施設・装置を核兵器の研究・製造に転用することを禁じ、日本核武装の大きな歯止めとしている。今や電力量の約3割を原子力発電に依存し、産業の"血液"としている日本は、この面からも、核武装の手を自ら縛っているのだ。
 だが国家は、自国の利害をあくまでも冷徹に、主体的に計算し、行動しなければ自滅を招く。(;)