核を考える(5)2006年11月20日 07:56

 核エネルギーと核兵器の両面で米国依存を脱け出せず、新興核保有国・北朝鮮に「アメリカの一州」呼ばわりされている日本は、いったいどうしたら、このみじめな状況を解消できるのか。
 それとも、アメリカ依存の屈辱など問題にせず、ひたすら経済上の安泰を求めていれば、国家・民族の誇りなど、どうでもいいのか。
 こうした国家存立の基盤に関わる論議は措くとして、身近に迫った北朝鮮の「核の脅威」に対処するには、少なくも「核防衛の論議」を尽くして当然だ。
 率直に言って北朝鮮は、同じ核ミサイルを持つ中国やロシアと違って、国際社会の一員としての行動上の責任とか人道の常識が、およそ通じない徹底した独裁国家である。それだけに、わが国としては最悪の事態を想定しておく必要がある。
 この際、提唱したいのは、「非核3原則」の第3項、核を「持ち込ませず」を、日本国として、はっきりと「持ち込ませる」と改め、国民の合意の下に内外に宣言することだ。
 もともと「持ち込ませず」原則には、決定的な矛盾がある。安保条約の下に、米国の核で安全を保障されているからには、有事の際、日本領内に核が持ち込めないのでは、安全保障の用をなさない。
 現実問題として、有事に備えて核を装備している米軍の艦艇や航空機が、日本の基地や領海に入る際、そのつど核兵器を取り除いてどこかに置いて来るなど、およそ非現実的だ。米国の核の傘に頼らざるをえない現実を認めるならば、傘の行使の自由を縛るのは全くの矛盾である。
 実は、政治家や国防当事者、識者やジャーナリストが、この現実をとっくに知っていて、敢えて口にしなかった。国家の指導的な立場にある者が、核の持つ政治性に触れることを恐れ、無責任と怯懦を分かち合ってきたのだ。
 今こそ、現実と真正面から向きあわねばならぬ。必要とあらば、いつでも米軍に核を持ち込ませる態勢にあることを宣明することが、多少なりとも暴挙への「抑止力」になる。
 国家・国民の安全を他国に頼ること自体、本来あってはならぬが、憲法をはじめ日本が抱えている種々の制約を勘案すれば、今、国民合意を急ぐべきは、まず「非核3原則」3項の変更だ。(;)