核を考える(8)2006年11月23日 08:05

 日米で共同開発したBMD(弾道ミサイル防衛)システムであっても、集団的自衛権に触れる恐れがあるから、「日本の自衛隊は、米国に向けて発射されたミサイルは迎撃しない」という、一部与党幹部さえも口にする見解は、それ自体が「憲法改正の必要」を珍妙な仮面をかぶって説いているシニカルな「問題提起」であると言った方がいいのかも知れない。
 この見解は、2003年12月、小泉内閣がBMDシステムの導入を決めた際の福田康夫官房長官の説明、「第三国の防衛には使われることはないから、集団的自衛権の問題は生じない」との発言に由来するものらしい。
 しかしこのシステムが、発射されたばかりのミサイルの標的を、それほど器用に判別できる性能を備えることになるのか、政治家も、開発に当たる防衛技術者も、本当のところを国民に知らせる義務があるだろう。
 現行憲法は、どのように読んでも国家の「自然権」である「自衛権」を否定している。それなのに日本は、国家の「自然権」の発動のために、自衛隊を設けて戦力を備えている。「戦争放棄」より「自然権」が現実に上位であることを認めているのだ。その証拠に、国会も最高裁も自衛隊に「違憲」の判断をしない。
 そして、自衛隊の違憲常態を責められると、政府は「専守防衛」を盾に、追及をかわしてきたのが戦後の歴史である。「非核3原則」の第3項と同様、誰しもが明白なウソと思っていても、政治的な波乱、いや政治的虚構の破綻を防ぐために、現実を現実として認めようとしない。
 こんな日本人の危機管理感覚は、この辺で清算しないと、「政治にはウソも方便」とか「三権分立はただの建前」という民主政治の空洞がいつまでも埋まらず、とどのつまりは、国民の遵法意識の喪失と、国家の破滅を招く。国は虚構では保たない。
 「専守防衛」が大前提なら、私の提唱の第2として、核シェルターの普及と、核施設周辺や大都市における官民一体となった核被害防衛組織の構築を、政府に求めたい。「専守防衛」をうたいながら、このような核攻撃に備えた施策がないのは怠慢だ。ミサイル迎撃も防衛だが、迎撃し損なった場合の防衛も同等に大事だ。(;)