自由にも歴史2007年01月09日 08:01

 ネット世界が膨張するにつれ、全体として言論発信者の責任感が薄れて来たように、私には感じられてならない。その傾向は、ネットの世界から既成の言論界にまで広がって来た。
 特に、テレビ・放送の言論発信には、送りっ放し、言いっ放しというメディア特性に甘えているのか、さまざまな局面にそれが目立つ。
 情報は、受け手の引用を覚悟して発信されねばならぬ。ウェブの世界では、「コピー」である。そっくり「転送」することも簡単だ。既成のメディアでは、及びもつかない便利な情報処理技術が普及したわけだが、その分、他人の情報を引用しての再発信に安易さがつきまとう。
 技術的な簡便さが先行して、間違った情報、悪意を孕んだ情報などが、不注意と軽薄さをつけこまれて、細菌の分裂のような勢いで拡散して行く。
 ネット社会とは、実はとてつもなく危険な世界なのだが、そこを恐れている人は少ない。もし、ヒトラーとナチスのような、情報操作で社会を動かす意図を抱いた人々が、今日の社会で力を得たら、その影響力は電撃的なものになるはずだ。
 日ごろ、何も考えずに享受している「言論の自由」だが、市民の財産になるまでには、先人たちの命がけの闘いがあったことを忘れてはならない。『源氏物語』一つとっても、一般国民が全編を読めるようになって、まだ半世紀ちょっとなのだ。それまでは、天皇と皇室の神格性を損なうという理由で、肝心な「不倫」の部分が出版されることはなかった。
 自由には責任が伴う。最低限の「不自由」を忍ぶ「自制の責任」が必要だ。具体的には「自主規制」であり「自浄」である。自由と放縦は異なる、自制のない自由が放縦の域に及んで、その弊が公益を損なったり、他人の権利や自由を侵す状況がはびこればれば、得たりやおうと、公権力が法規制に乗り出してくる。中国や米国のネット監視体制を見れば、それは明らかだ。
 ネットの自由を確保し続けるために、利用者もプロヴァイダーも「実名発信」を貫くべきだ。(;)

コメント

トラックバック