黙って潜れか2007年01月10日 08:05

 北朝鮮の核実験成功発表から、3カ月が過ぎた。熱しやすく冷めやすい国民性のせいか、なるようにしかならん、という投げやりな諦観のためか、“床屋政談”からも、この話題はほぼ消えた。
 どんな魂胆があるのか、まず、新聞がこぞって北朝鮮核ミサイルへの対応策を論ずることを封じ込めてしまった。「わが国の核兵器保有の是非を論ずる議論は、あってもいい」と、ごくあたり前の発言をした中川昭一自民政調会長や、「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、いろいろな議論をしておくのは大事だ」と、これまた当然の答弁をした麻生太郎外相も、聖域に踏み込んだ異教徒のように、マス・メディアはもとより同僚議員にまで指弾され、苦笑いして黙り込んでしまった。
 政治の第一の責務は、国民の生命と財産を守ることだ。ならば、国家・国民の安全が危殆に瀕するのを読んで、対抗上の選択肢としての「核保有の是非」を虚心に論議するのは、政治家の義務である。それを、「核保有の是非論は《非核3原則》を国是と結論済み」などと、横を向いてしまうのは、黒眼鏡のヤクザ集団に出会ったら、視線が合わぬようにやり過ごせ、とする姿勢と同じだ。
 首相自ら「政府や自民党では、論議するつもりはない」としたのも、期待に反した。安倍内閣は、戦後のタブーに挑戦する政権ではなかったのか。腑抜けな指導者に率いられた国家の、腰抜けぶりを嘲笑うように、13カ月ぶりで去年暮れ再開された6者協議は、予想通り、何の進展もなく終わった。北朝鮮は、核ミサイルの抑止力を信じ、その完成のために時間稼ぎをしているのだ。
 このまま推移すれば、2~3年後には、北朝鮮が核弾頭のついたミサイルを持つ。日本国民はどうすればいいのか。今こそ、政治とジャーナリズムが方向を示す時だ。遅れは許されぬ。
 論議の果てに、抑止力としての核保有で合意するのか、《3原則》を変えて公然と米の核を持ち込ませるのか、集団的自衛権を認めるために憲法を改正するのか、国民こぞっての議論を要する問題は山積している。時間の余裕はない。黙って、地下深く穴を掘って潜れとでもいうのか。(;)