天与の愛を今2007年01月17日 08:11

 親が子を殺め、子が親を殺し、兄が妹を惨殺し、妻が夫を切り刻む。──何ともおぞましい事件が相次ぐ。だが昔から、似たようなことはあった。特に、男女の愛憎が絡んで、妻殺し夫殺しに果てた例は比較的多い。
 由来の詮索を長年の宿題にしているが、かつて横浜市戸塚区内の古地図には「字夫殺シ」という地名があった。いつの時代からの名か、小庵からも遠くはない。いずれ江戸期にでも話題をさらった事件に因むものだろう。
 半世紀の昔、新聞記者双六の振り出しだった千葉に赴任した時、挨拶に行った警察署の課長が、「ここは尊属殺人が突出して多い県でしてな。奈良に都があったころ、印旛沼、手賀沼のあたりは流刑地だったからだという説があります」と、今なら人権問題だ!と大騒ぎになりそうなことを、さらりと聞かせてくれた。なるほど、と思い当たる事件もあった。
 夫婦は「のけば他人」と言う。兄弟は「他人のはじまり」と言うくらいだ。壬申、保元、平治の昔から、親兄弟を殺して政権を奪ったり、女房子供を殺して保身した「貴顕」も名を残す。人間、ケモノでないがために、することは、しばしばケモノも嘆く凄まじさだ。
 20歳代の前半から、何度となく血のしたたるコロシの現場も見てきたし、人間が演ずる大方の惨劇には、もう驚く年齢ではない。だが、この数ヶ月の殺伐さには、さすがに考え込んでしまう。
 人類の進歩は、科学技術の発達による「物質文明」の部分だけなのか。発展しているように見える法制や諸制度、倫理や道徳、そして文化といったものは、所詮、芯のところがケモノとして永劫に進歩しない「人間という動物」がまとっている、吹けば飛ぶような薄衣にすぎないのか。
 だが、ケモノでさえ夫婦や親子、同類に対して「天与の愛」を持つ。人間も、いま一度「天与の愛」に目覚めた方がいいのかもしれぬ。欧米に学んだ「個の偏重」「モノの偏重」、その充足を追って壊れてしまった「家庭」のあり方、「父母」「子」「親子」のあり方を、原点に帰って見直してみたい。(;)