偉人を尊ぶ心2007年01月19日 08:04

 私たちの幼いころには、「英雄伝」という類の本があって、少年たちは競って読みふけった。少女向けにも、孝女節婦や烈女の行いを記録した「逸話集」が、「少女小説」の向こうを張って読まれていた。先の戦争が始まる前から、戦中にかけての日本だ。
 英雄伝では、戦国の武将から日清・日露の両戦役で華々しい働きをした武人の奮闘ぶりや生い立ちが紹介された。それぞれの逸話を通じて、当時の初中教育にも取り込まれていた忠・孝・仁・義とか、儒教の「五倫」として挙げられる君臣の義・父子の義・夫婦の義・長幼の序・朋友の信、同じく「五常」とされる仁・義・礼・智・信の実践例が示された。
 「英雄」には、刻苦勉励して世のため人のために生きた、二宮金次郎や佐倉惣五郎、空海や禅海、豊田佐吉や野口英世なども挙げられて、その生き方が、子供たちの向上心を励ました。
 国全体が、有為な後継世代を育てようと一心に励んでいた中で、英雄伝や逸話集が、それなりに「人づくり」の助けになっていたのは確かだろう。とにかく、得た情報を知識とし旺盛に吸収できるのが幼少期だし、人間はその幼少期から、まるで天与の資質のように、すでに善悪を嗅ぎ分ける道徳的感性を備えているから、効果は大きかったはずだ。
 ところが、戦争に負けて半世紀近く、この手の本の世界は、かなり違ったものになった。自由な世の中が開けたのだから、もっと自由に過去の人間の評価をし、今日の人づくりに役立ててもいいのでは、と思うのだが、まず軍人・武将がオミットされ、「偉人」が敬遠されるようになった。
 国のため国民ののために生命を賭す行為に、至当な評価をして当然なのだが、「戦争=惡」という図式で外された。勝者の「骨抜き政策」が奏功した結果だ。おまけに、日教組などの無差別平等観が禍して、過去の偉人を尊ぶ風も薄れた。最近ようやく、国家・国民のために尽くす生きざまを真っ当に評価する意識が国民に復活し始めたのは、当然のことながら、喜ばしい。(;)

コメント

_ ukihaji-12 ― 2007年01月27日 15:42

竹庵様

再度お訪ねしました。 教育問題が日本国の将来を、
決するのは言うまでも無い事ですが、人間としての
本来の姿を、じっくりと考える時だと思います。

かっては思いもしなかった、青少年の凶悪なる事件。
親子に関した哀れむべき事件等、最早論語の孔子の教え
孟子の教え等を早急に、学校教育に取り入れなければ、
端的に申せば日本の未来は無いのではと、悠慮する
ばかりです。 

_ 竹庵(ukihaji-12様へ) ― 2007年01月28日 16:42

ukihaji-12様。 ようこそ、またのご来庵。
 教育が政治・社会の最重要課題として論議されるのは、今日に限ったことではありません。論議の柱は、1)学芸・技能の面での育成。2)倫理・道徳・情緒といった人格の面での育成。3)前2者の方法論、の3つでしょうが、戦後の教育では、2)の柱が非常に弱体化したことは明らかです。
 これは、欧米とは違った道徳観や価値観を基盤に、欧米に武力で対抗するまでになった日本の精神的・道徳的根幹を破壊することに、戦勝国がし向けたからにほかなりません。
 それとともに、戦争に敗れて自信を失った日本人が、教育は国や自治体が与えてくれるものだと思いこんだところからも生じているでしょう。日本の伝統的な教育は、基本として父子伝来でした。
 確かに、孔孟の教えを初等中等教育に取り入れることも一つの便法で、長い時間をかければ、人倫の荒廃を正して行く上で有効に働くでしょう。
 また、家庭や、ご近所との人間関係の復活によって、個と公に目を向けさせ、「人の道」に目覚めさせる方法もとるべきでしょう。

 ただ、社会の倫理的荒廃には、教育分野の変化にも増して、人間を見る価値観の変化が大きく貢献しているように思えます。つまり、「物量の戦争」に敗れた反動で、これだけ「モノ」「カネ」を重んじ、社会の価値観が「モノ」「カネ」で人格を量るように変わってしまった今、そして、碩学の賢者の提言より凡愚の多数が支配する社会システムを盤石にしてしまった世の中では、大衆が、厳しいとか、ツラいとか、たいへんだとかと「感ずる」改革は、政治も避けて通り、公教育にも採用されないのです。
 結局、「理想の教育」はいつも観念上の「お飾り」になっているだけで、大衆に甘いことを言い、自分の地位と利益を確保して、陰に陽に甘い汁を吸って世渡りをする政治屋や言論人、“有識者”が、上っ面の教育改革論議をしていても、状況は悪化するばかりでしょう。
 では、どうするか。──「修身斉家治国平天下」と言います。まず、自分一個から倫理・道徳に悖らない生き方をし、家を治めるところから始めるよりないのではないでしょうか。論語、孟子も、仏陀の教え、クルアーン、キリストの教えも、一個の人間の正しい生き方を示してくれます。あとは、実践です。
 倫理・道徳も、学問と同じで、生涯の研鑽によって、まず一人の実践から生きてくるものでしょう。偉そうに教育を論じている政治屋が、国民が拠出している政治資金までくすねているようでは、「公」に期待はできません。さしずめ、教育再生を論議する“有識者”からは、ビジネスで俄成金になったような手合いは除外すべきです。それとも、政治献金がものを言っているのでしょうか。やれやれですね。

_ ukihaji-12 ― 2007年01月29日 19:44

竹庵様
 この度は私の拙いコメントに、先生の貴重な時間を費やして頂き、多大な文章
で御教示下され身に余る光栄に能くし誠に有難く、御礼申し上げます。

 先生の文中 “日本の精神的・道徳的根源を破壊する事に戦勝国が仕向けた”
と有りましたが、現在の世界情勢を考える時、将に身につまされる事ばかりです。

 思いますに諸外国の外交の強かさに比して、余りにも劣る我が国の外交には
誠に残念です。 明治以来の日本の外交を今一度見たいものです。

_ 竹庵(ukihaji-12様へ) ― 2007年01月30日 09:04

 ukihaji-12様。仰る通りです。明治・大正初期の日本外交は、世界の一流でした。それは、おそらく日本が多くの藩に分かれて、それぞれが自藩の自衛のために、防備はもとより、諜報、外交を独自に展開し、そうした分野の重要性を認識して、さまざまな技巧を身につけた陸奥宗光や小村寿太郎、伊藤博文などの人材を数多く抱えていたからだと思います。
 それが衰微したのは、日清・日露の両役で予想外の勝利を得、武力を過信して慢心したからではないでしょうか。次第に外交は従たるものになり、武威をもって国交の主役とする風が強くなって行った。
 それと、忘れてならぬのは、外交官たちが相手と歓を分かつことに重点を置く西欧流の外交に幻惑された上、宮内省に倣い、外務省だけ特別にOBの子弟をコネ採用したことが、外交の体質を弱くしたと思います。
 今や、外交部門にこそ最も優れた公務員を置くべき時代で、財務系統重視にいまだに拘っている官僚・政治家・教育関係者は頭の切り替えが急務です。

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