星の流れに…2007年01月26日 08:00

 子供心にも、敗戦の屈辱をひしひしと感じさせられたのが、進駐軍の兵士らに降った女性たちの姿だった。
 真っ赤な口紅、への字に描いた眉、アイシャドウにパーマ。そして、特別な日本人として入店を認められた、進駐軍専用の店「PX」で買って貰った原色のワンピースやコートをまとい、ガムを噛みながら、軍服の大男の腕にぶら下がって、虚勢を張って歩くハイヒールの女たち。
 姿は、戦前にも見られた「洋装」ではあったが、女たちの派手な化粧と挙措動作は、それまでの日本にはなかった。赤い尖った爪の指に挟んだ「洋モク」をふかし、街頭での口づけはおろか、白昼から公園の茂みで実演に及ぶ者まであって、「目覚め時」の少年たちを痛く刺激し、かつ憤激させた。
 1945(昭和20)年の敗戦までは、鎌倉時代からの歴史を持つ歴とした公娼制度があり、遊郭や待合が存在した。ただ、これらは大方、一般の青少年の目には入らない特定の区画にあり、男女が睦み合う情景などは、戦時下では殊更に「秘め事」として、公然と見られるものではなかった。
 進駐軍が入って来て、「性」の様子がガラリと変わった。「民主主義=自由」という、大胆な解釈が広まったこともあった。それまで国民を縛っていた禁欲的な生き方が、敗戦を区切りに一気に解き放たれ、自由な「性」が巷に氾濫した。
 公娼制度は「赤線」「青線」に名称を変えただけで賑わいを増し、「夫婦雑誌」が売れ、自由恋愛のカップルで「温泉マーク」が繁盛する風俗が、1958(昭和33)年の公娼制度廃止(売春防止法の施行)のころまで続いた。
 「パンパン=街娼」や「オンリー=私娼」と呼ばれた女たちには、未曾有の失業時代に、家族や自分を養うため、万策尽きてこの道に入った者が多かった。1947年、菊地章子が歌って「星の流れに」が大ヒットした。その歌詞は、一説に大陸から引き揚げて来たものの、生きるためやむなく街角に立った21歳の女性の、「顛落するまで」と題する新聞の投書を読んだ作詩家・清水みのるが一晩で書いたものという。私は、軍歌は歌わない。そんな席では直立して、この屈辱の歌を歌う。(;)

コメント

_ ukihaji-12 ― 2007年01月26日 15:54

竹庵先生

ひさかたの入室をお許し下さい。日頃のご無沙汰申
訳ありませんが、私は昨年暮に古希を迎えた男性です。
先生の本日の記事、思えば昨日の様に脳裏を霞めます。
敗戦・廃墟の混乱から、よくぞ是までの復興誰が予測
出来たのでしょうか。

無事復員された方々はもとより、団塊の世代の力、
已む無く生きる為とは言え健気にも細腕の力、
感銘こそすれ今もこの歌を聞くと、泣けて泣けて仕方ありません。
“一度会いたいお母さん” 飽食と言われる今日ギャル達に、
爪の垢でも煎じて飲ませたい。先生のご活躍を祈ります。
因みに以前先生の記事にTBさせて頂いたことが有ります。

_ 竹庵(ukihaji-12 様へ) ― 2007年01月27日 08:58

 ukihaji-12 様。 お久しぶりです。お元気でしたか。戦争体験も大事ですが、戦後のありさまも、直に体験した者が語り伝える必要がありましょう。とにかく、日本があれ以来、変わったのですから。
 ご存じないであろう若い方たちのために、この歌を紹介します。
 
「星の流れに」1947(昭和22)年
歌・菊地章子/谷真酉美
作詩・清水みのる 作曲・利根一郎

1 星の流れに 身を占って
  何処(どこ)をねぐらの 今日の宿
  荒(すさ)む心で いるのじゃないが
  泣けて涙も 涸(か)れ果てた
  こんな女に誰がした


2 煙草ふかして 口笛吹いて
  当(あて)もない夜の さすらいに
  人は見返る わが身は細る
  街の灯影(ほかげ)の 侘(わ)びしさよ
  こんな女に誰がした


3 飢えて今頃 妹はどこに
  一目逢(あ)いたい お母さん
  唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
  闇の夜風も 泣いて吹く
  こんな女に誰がした

 なお、作詞者・ 清水みのるには「森の水車」など、明るい詩もあります。 

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