記者の物差し2007年01月30日 07:59

 ものごとを直に見聞きして他人に知らせ論ずる、「記者」という職業人は、ものを見聞きする際に要する物差しを何本か、そして知らせる相手に目盛りを合わせられる物差しを別に1本、懐に備えているべきである。その多様さが、記者の優劣につながる。──私の持論だが、こういう意味だ。
 断っておくが、ここで言う記者には、政党や宗教団体の機関紙・誌の記者は含まない。その類の記者は、それぞれ立党のイデオロギーや党議・教義に規制された固有の物差しを持たされていて、その尺度でものを見聞きし、一定の目盛りで報ずれば、まずことは足りる。
 もっとも現代には、機関紙・誌の売上げをもって党費を補う政党、教団などの組織もあるから、この種の組織・団体の機関紙・誌は、紙面作りに際して、組織外にいる読者の購読や勧誘も意識している。従って、必ずしも組織専用の物差しだけでは、仕事にならない場合もあるが。
 機関紙・誌に対し、一般の商業紙・誌の記者は、取材の対象になる人間が極めて多岐多様にわたる。私の経験から言っても、記者とは朝(あした)に外遊する宰相に同行するその愛娘に会い、夕べに世の底辺の窮状を報ずべく娼婦に聞くような仕事だ。言葉遣いや態度、服装からして、取材相手に合わせるくらいの気配りと価値観の融通性がないと、ホンネや実相は探り出せない。
 その上、機関紙・誌とは違って読者の多様さは際限がない。生活水準や知的水準も、関心事も感動を覚える事象も千差万別で、一人一人の読者がそれぞれ固有の物差しを構えて待ち受けている。だから、できるだけ多くの読者に、より正確に事実を伝えようとすれば、読者の物差しの最大公約数を看て取る、融通性に富んだ目盛りを備えた物差しを持っていないと、記者失格である。
 ところが戦後の日本では、商業新聞が、まず民主主義の育成者に擬せられ、次いで多くの新聞が左翼勢力に牛耳られて、まるで機関紙のように、1本の物差ししか持たない記者に占拠されてしまった。多様さを失った新聞が、面白かろうはずがない。そこを今、ネットに衝かれ、侵食されている。(;)