多数決の道(6)2007年03月01日 08:06

 多数決制による集団意思の集約と統合を成立させるための第6のカギは、「決定への服従」である。
 さんざん論議を尽くしながら妥協と譲歩を重ねた末に、異なったいくつかの主張を採決まで収斂させてきたのだから、多数決制による決定は成員の誰しもが満足する姿になりそうなものだが、実はそうならないのがこの方式である。
 それどころか逆に、譲歩と妥協の産物として、誰しもに不満の残るキメラのような姿の決定が生み出されることさえある。それでもなおかつ、結果がどんなに不満足なものであろうと、全成員の決定への服従が約束されなければ、この方法による「集団意思の集約」は成り立たない。
 しかも奇妙なことに、多数決制を進めていく上での第1の要件が、成員の「権利の平等」であるにもかかわらず、多数決制の結果はこれと矛盾した「少数の多数への服従」に帰する。
 歴史的に見て、多数決制は、「特権を持つ少数への多数の服従」を否定するところから始まった。だからこそ、その第1の要件が「権利の平等」なのだが、結果は必ずしもそれを満たさない。議論の過程に意味があるとされるゆえんだ。
 こう見てくると、多数決制には頼りなさや、矛盾が内在していることが明らかだ。日本人が欧米から教わった多数決という手段は、集団意思をまとめるための、数あるやり方の一つにすぎない。──そのくらい柔軟に考えて、多数決が絶対なものであるという呪縛から、たまには解き放たれてみることも大切だろう。どんな社会でも、多数が必ずしも正しいとは限らない。
 さはさりながら、人間の集団が人間を信じ、権利の平等と英知を信じ、自らの道を拓いて地上に楽園を築こうと望む限り、多数決制に勝る自治のシステムがないことも事実だ。
 そして、「少数の多数への服従」を、根深い不満や新たな紛争の種子にしないために、「決定の見直しへの柔軟さ」と「秩序ある活発な言論活動」が何としても必要だし、それらがこのシステムを補強する。
 多数で決めたことも、金科玉条としてはなるまい。国の基本法である憲法ですら、見直しをためらうべきではない。(;)=この項完=