社会部時代(2)2007年03月06日 08:00

 新しい社会面を目指した田代は、編集局幹部を説得して、社会面の右ページに「第二社会面」を創設、評判の強腕にモノをいわせ、優れた記者を社内外からせっせと社会部に集めた。
 その中には、のちに「天声人語」の名執筆者となった深代惇郎や疋田桂一郎(いずれも故人)、早く朝日を去って紀行エッセイストに転じた森本哲郎、“都市交通学”とでもいうか、草創期のモータリゼーションと都市生活の調和論で一家をなした岡並木(故人)らの書き手がいた。疋田も森本も途中入社組で、田代のやり方は、万事「実力本位」だった。
 有楽町にあった東京本社の社会部に着任した私は、「しばらく肩慣らしをしろ」と言われ、通信部から社会部に移管されて間もない立川支局詰めを命じられた。当時の立川は、典型的な「基地の町」で、市内・府中・横田などの米空軍基地や、基地反対闘争の砂川を管内に抱えていた。いずれも重要なニュース・ソースだったが、これらのソースは、どれも核心ではなく末端であった。
 米軍基地には滅多に入れない仕組みが中央ででき上がっていたし、砂川闘争に至っては、都心の社会党本部や総評事務局で何もかも設計されていたようなもので、地元では却って本当のことはつかめず、戸惑うことが多かった。とはいえ、前任地の千葉や青森の支局ではとんと話す機会がなく、錆びるにまかせていた英語を、時たま使うことができるのは楽しかった。
 新聞記者は、官庁や警察、業界団体などの記者クラブにたむろしているだけでは、役所や団体の“準広報官”に堕してしまうのがオチである。30数年の新聞社の生活の中で、外勤記者時代は僅かな年月だったが、私は「クラブに居つかない男」で通した。
 とにかく歩いた。役所の始業時刻とともに出て、まず担当の警察や官庁の庁内をクマなく歩く。次は自転車で出先だ。交番や派出所、支所のような末端で、思わぬ特ダネをものにしたことが何度もあった。商店街の事務所なども有力な情報源だった。「足で書け」と、仕込まれてもいた。やる気がなければ、励行は無理だった。(;)

コメント

_ とんこう ― 2007年03月06日 10:18

昭和記念公園もでき立川もだいぶ変わりましたね。

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