社会部時代(9)2007年03月15日 07:56

 12日の未明に山荘に繰り込んでから、30数時間後に黒こげ死体で発見されるまでの10人の行動はナゾだった。ただ、この日の午前中、屋根のペンキを塗り替えに「秋田山荘」に行ったという塗装業者が、「ベランダに7~8人の履物が脱ぎ捨ててあったが、屋内には人の気配は感じられなかった」と証言して、一層ナゾを深めた。
 たまたま金融会社の専務に複雑な女性関係があったこと、ママの縁者に殺人事件の容疑者がいたこと、ホステスの中に地元の暴力団員の愛人がいるという聞き込みがあったことなどから、13日の夕方に開かれた取材打ち合わせで、江森と私はこのホステスの周辺を洗うよう命じられた。警視庁クラブから応援に来た先輩に、ヤクザの関与と殺人・放火をしつこく疑う記者がいたからだ。
 そんな空気もあって、13日の夜遅く東京から届けられた夕刊遅版の1面には、「焼跡に十人の死体/山中湖の山荘/惨殺、放火か」「戦後第二の大量殺人?」という見出しが踊っていた。「第一」は、昭和23(1948)年、12人の銀行員が毒殺された「帝銀事件」だ。
 新聞社の事件取材で古くから使われていた手法だが、取材記者が持ち帰った情報を、かいつまんでキャップに報告すると、キャップは報告のこれこれの部分を×行くらい書いてくれ、と指示を与える。記者が全体のごく一部分を書いて提出すると、キャップはこうしたコマ切れの記事を、1本にまとめて行くやり方がある。記者の数が少ない支局では、とても考えられないやり方だった。
 13日夕方の打ち合わせの時、私は現場を身近に見た数少ない人間として、風呂釜の異常な状況、プロパンガスの不完全燃焼と一酸化炭素中毒の可能性などについて、直に見て推理した通りを報告し、「この事件は事故の可能性が高いと思います」と、自分の考えを話した。
 ところが、警視庁から来た怖い目付きの先輩たちは、「あのな、社会面の記事は探偵小説じゃぁねぇんだよ、おめぇさん」と、取り合ってくれない。何を生意気な青二才め、という見下した表情だ。
 「いずれ、解剖と鑑識で分かりますよ」と、毒づいてやりたい気になったが、ぐっとこらえた。(;)