社会部時代(17)2007年03月27日 08:03

 「山中湖事件」から3ヵ月も経たない12月の初め、私はいきなり「遊軍」に配属された。
 社会部には「遊軍」といって、10数人の無任所の記者が、本社の部付きで配置されていた。若い記者でも10年のキャリアがあるベテランのグループで、入社から5年にも満たない私などは、本来の序列からいえば、都内の警察(サツ)回りが順当というところだった。
 辞令の日が来て、部長の田代に訴えた。「私にもサツ回りをさせてもらえませんか。何だか、みんなにソネまれるようでイヤなんですが」。
 すると田代は、「君は警視庁の連中を手玉に取ったんだから、今さらサツ回りをやったって仕方ないだろう」と、「山中湖事件」を持ち出した。追いかけるように、部長代理の岩井弘安 (後東日本放送会長) が、「君には航空を持ってもらう。そんなにサツが回りたきゃ、空港署もあることだし、7方面も分担しろよ」と言ってくれた。
 与えられたビート(担当の取材部門)は、予想を超えた広いものだった。航空を持つことは、羽田空港保安事務所と、空港署、税関、検疫所、内外の航空会社の空港営業所・運行本部・整備工場、都心では当時の大手町合同庁舎の運輸省航空局、内外航空会社の本社やダウンタウン・オフィスなどをカバーしなければならない。
 その上、買って出たサツ回り分担は、渋谷、港、品川各区に点在する警視庁第7方面管区の警察署を、1年先輩の小林一喜記者 (のちテレビ朝日ニュースステーション・ナレーター、故人) のサブを勤めることだった。
 おまけに航空記者には、ひと昔前の「船 (ふな) 記者」の役割が課されており、船に代わって、深夜・早朝を問わず空から来日する世界各国の知名人、変わり種の動植物、出国する内外の有名人の取材が、大きな部分を占めていた。(;)