社会部時代(18)2007年03月28日 07:56

 さらに、航空担当の記者は、台風、豪雪、山火事、大火などの大規模災害が起きると、羽田に待機する小型の社機で現地に飛び、空からのルポもする。こんな時、空は決まって気流が乱れており、しかも低空で飛ぶことになるから、胃袋を裏返しに行くようなものだ。
 押し上げてくるものを、吐袋に納め、納めしながら、メモを頼りにソラで記事を書いて読む「勧進帳方式」で、ルポを無線送稿したものだ。
 そんなことで、羽田の詰所で夜を明かすことも多く、また、午前5時過ぎに雀の囀りに送られて所沢の社宅に車で帰りつくと、7時すぎにはもう迎えの車が来るといった生活に、さしもの私も、よれよれになってしまった。
 話を少し戻す。立川での勤務は僅か4カ月ばかりだったが、この間、私のその後の人生に大きく関わることになった男との出合いがあった。現在の朝日社主・上野尚一である。朝日には、創業以来の大株主である村山・上野両家の当主を「社主」と呼んで、代々、頂点に戴く伝統があった。尚一は、上野家の3代目・淳一(故人)の長男として、いずれ社主を継ぐ日を約束されていた。
 慶大法学部を卒業後、イギリスに遊学していたが、この1962 (昭和37) 年に帰国して東京社会部員として入社、私のすぐ後から立川に赴任してきた。上野家の代々のしきたりで、尚一もまた、形の上では一兵卒の社員から、朝日新聞社に関わることになったのである。
 私は、大学時代の恩師・長谷部忠(戦後混乱期の朝日社長・故人)から、朝日の経営上の最大の問題点が、社主家による株式の寡占にあることを聞かされていた。緒方竹虎に兄事していた長谷部は、緒方が朝日を去った動機に、村山社主家との確執があったことを、言葉少なに漏らしたことがあった。
 両家は、敗戦後の占領政策が打ち出した「公職追放令」によって、一時期「社主」の座を逐われたことがあったが、1951(昭和26)には復辟して、この制度が復活していた。(;)